病理診断教育の効用

「そこにあるの、なんですか?」

若い病理医と一緒に顕微鏡を見ると、このように質問を受ける。

病理医の勤める病理検査室には、特殊な鏡筒(きょうとう)を備えた集合顕微鏡という装置がある。複数人で同時に顕微鏡を見ることができるのだ。近年はデジタルパソロジーといって、細胞の姿をパソコンのモニタ上で見る装置も増えてきた(当院にはまだないけど)。これによって、若い病理医は、自分が今目にしている細胞がなんなのかを直接指導医に尋ねることができる。

彼らがいう「そこにあるの、なんですか?」の「そこ」には何があるか。

コナン君の「妙だな……」のように、むずかしい診断を解決に導くようなヒントがあるのだろうか。

じつはたいていの場合、病的意義がほとんどない「正常構造の些細なバリエーション」ばかりが見つかる。

リンパ節の類洞内にあるマクロファージだったり、潰瘍の辺縁にある腫大した血管内皮細胞だったり、炎症性ポリープ内の紡錘形細胞だったり。

若い人はこれらを目ざとく見つけ、「これはがんなのではないか」と悩み、顕微鏡と向き合いながら何時間も首をひねって、私たちに相談をもちかける。



同じ細胞を我々中年病理医がみる。ほとんど一瞬で「はい大丈夫大丈夫」と通り過ぎてしまう。要は「大したことがない細胞」なのだ。「がんかも?」などと疑うことはめったにない。

「えっ、ぜんぜん悩まないんですか?」悩む若者に、指導医は、こんなふうに声をかける。

この細胞だけをいつまでも見ているとぎょっとするしびくびくするけど、がんと見比べると違いがわかると思いますよ」

この細胞だけを深掘りすると悪そうに見えてくるかもしれないけれど、俯瞰して、どういう環境下にこの細胞が出ているかを見れば、がんではないことがわかるでしょう」

ポイントは拡大倍率。それも、顕微鏡のレンズという意味だけではない。心の中で、何をどれくらいクローズアップして考えているかという「心象のズーム」をいかにほどよく保っているかが大事である。あくまで私の印象ではあるが、若い病理医が細胞の良悪で迷っているときには、基本的に「拡大しすぎ」なことが多い。

ある細胞1個をどんどん拡大して、細胞の形や色合いなどを詳しく吟味し、がんか、がんじゃないかを考えるというのは方針としては間違っていない。

しかし、実際には、細胞1個の変化にはかなりのバリエーションがある。がんでない細胞が、がんに似た変化をきたしてしまうこともしょっちゅうある。

そういうとき、細胞1個だけを見るのではなく、ほかの場所にある確実にがんとわかっている細胞や、あるいは逆に絶対にがんではないと思える細胞と見比べるのがコツである。容疑者ばかりではなく、善良な人びとや、ゴリゴリの犯罪者と交互に見る。

さらには、その細胞の周囲に何が起こっているかを引きの目線で検討する。容疑者の顔付きや持ち物検査だけではなく、その容疑者が暮らす家や地域の様子も加味する。

そうやって、クローズアップとロングショットを往還するようなかんじで、細胞とその環境とを両方見ることで、私たち病理医はだんだん迷いを少なくしていく。




……ただ、今日の話はじつはここからが本番だ。

私たち中年病理医は、若い人たちが迷うような細胞もきちんと見分けることができるようになっている。

しかし、ときに、若い人が迷う細胞に立ち返ってみるのもおもしろいと思う。

私たちが長年の経験によって、「ぱっと見は似ているけれどじつはまるで別物」として、議論の対象から早々に外してしまっている細胞、ふだんはあまり気にしていない細胞を、あるとき、あえて深掘りするのだ。

「どうせがんじゃないから適当でいいや」くらいの気持ちで観察をスキップしていた細胞を、この日ばかりはフィーチャーする。今日だけはあなたが主役である。

反応性の腫大を示す中皮細胞。貪食まで至っていない組織球。皮脂腺。神経節。

古い文献などもひっくり返して、電子顕微鏡所見などにも立ち返って、詳しく見る。とことん考える。診断とはもはや関係なくなっているのだけれど、どっぷりとひたる。

そうやっているうちに、「ベテランならばがんとは似てないと断じてしまうけれども、知識のない人が見たら間違う程度にはがんと似ている良性の細胞」が、なぜ「がんにうっすら似たのか」の答えが出てくる場合がある。

細胞骨格に、異常な上皮細胞と似たようなタンパク質が用いられている、とか。細胞同士のゆるい結合性が出現している、とか。

日頃は目もくれなかった「モブキャラ」を通して、細胞同士の類似や相同に、いつもと違う角度から気づくことができたりもする。

気分は「マイナーだけれど神回」だ。オタク大好き回。



さっきまで書いていたことと真逆の話になってしまうのだけれど、病理診断の役に立たないという理由でふだんおろそかにしがちな「細胞1個だけを見る」という行為に、あえて立ち戻ることはおもしろい。細胞そのものの分化やはたらきがわかりやすくなったりする。中年病理医にとって若い病理医の目線は宝の山だ。スレたおっさんが忘れてしまった細胞の輝きは若者のキラキラした視線によって増幅されるのである。