胃腸の動きが悪いのか、ちかごろは午前中も午後もなんとなく胸に食べ物がつかえているような感覚がずっとある。これまでの経験をふりかえると、むこう半年くらいに抱えている仕事が多くて複数の締め切りを見据えているときにこうやって胃腸の動きが悪くなる。下っ腹の脂肪がハリを失い、目がいつもかさついて、髭の周りの皮膚が薄くなる。てきめんに体に変化が出るのだが年々その変化の度合いがえげつなくなっている。
なお同様の変化は仕事だけではなく、私の場合、旅行やレジャーを計画しはじめても起こることがある。たぶん、仕事がいやだから体に変化が出る、という話ではないのだと思う。未来に起こりうることのなかの、未定と決定の割合が、決定のほうに傾いた時に私の体は悲鳴をあげはじめる。何も決まっていない空白をどれだけ用意していられるかが今の私にとってはおだやかにすごすための肝なのだろう。論文だろうが原稿だろうが、外食だろうが海外旅行だろうが、「この日までに何をして、この日はこうしてすごす」というように、何かが確定するたびに私の神経鞘はすりへり、神経筋接合部がナイーブになって、筋肉が拘縮して、さまざまな分泌能力が低下して、乾きと硬さが増していって可塑性が失われる。
「やることがある幸せ」というのを、今の私はもう少し積極的に意識してもよいのかな、と思わなくもない。20代、そして30代において、私はしばしば何もすることがなく、何ものでもなく、何ができるわけでもなく、しかし何かでありたくてしかたなかった。それが何よりの苦痛だった。意味もなく大学や職場に長居して日が変わるまで自分の専門とあまり関係しない論文を読み漁り、他人の研究の手伝いに勤しみ手をひたすら動かすことで鬱滞した脳の熱を放散しようとした。あのころに比べて私はありがたいことに、何かをしなければならず、何ものかにはなれていて、何かとできることが多く、何かになれている。そして、しかし、そういった何もかもが心と体に張りを与えていたのはごく短い時間に過ぎず、何処か他人事のような、何かまだできるのではないかという次の階層の不安にさいなまれ、何をするにあたっても疲労が隠せなくなり、いつも何かと傷んでいる。
私はいつも目の前にある状況に何がしかの不全感を抱え、そうでない自分が何処かからかポツンと生まれてきてくれることを祈りながら、首をさすり、肩を回し、腹に手を当ててなだめ、心拍を早めてやりすごしてきた。そうやっていつの間にか、昔の自分が見たらきっとうらやむような立ち位置と、あこがれるような仕事と、嫉妬するような手さばきを手に入れていたのだが、心象のほうはあまり変わっていない。満ちるということを知らない水槽、引き切るということを知らないガチャマシン。土曜日に職場に顔を出したらデスクの上に、当直の技師さんが気を利かせて、月曜日に仕上げるはずの標本を積んでおいてくれたので、私はメールだけチェックして帰ろうと思っていたのだけれど結局午後いっぱいを費やしてその標本をすべて診てしまった。「月曜の朝に診るべき標本がたまっている」という状態で土日を過ごせる気がしなかったのである。すべての標本を見終えてデスクを後にし、車に乗った瞬間に大きなげっぷとおならが出る、こんなにもわかりやすく私の胃腸は止まっていたのだなと呆れる。もし私の車に自意識があったら、週末の夕方には窓をあけたまま私を待っていてくれるに違いない。