バンクシーの一番くじがあったらバンクジーって呼ばれるんだろうなと思いながらローソンをあとにする。結局お茶しか買わなかった。So-called ひるめしのもんだい。ローソンはCMだとおいしそうなお弁当がいっぱい売っているっぽい雰囲気を醸し出しているのだけれど、個人的にはドンピシャで食べたい昼食があんまり売ってない。ならセブンやファミマならいいのかっていうとそういうわけでもないし、セイコーマートのカツ丼も嫌いではないけど毎日食べたいともあまり思わない。飽きずに通える定食屋みたいな役割をコンビニが担ってくれたらなあといつも思う。スイーツはおいしそうなんだけどな。塩分控えめで油もあんまり使ってない感じで野菜がそこそこ入ったカロリー抑えめの昼食を置き、かつ、いつでもふらっと入れて待たずに食えて現金だけでなくペイペイもSuicaも使える定食屋が札幌市内に20000件くらい建ってくれたらだいぶ楽になる。空を見上げると自炊しろビームが降り注いでくるのが見える、ゼロコンマ8秒後に私はあのビームによって焼き尽くされる。ほどよく。西京焼きみたいに。
フォローしている作家の新刊がとどく。楽しみにしていたので週末に時間をとってじっくり読もうと思っているのだけれど、いちはやくタイムラインに流れてくる感想ポストがどれもこれも「読みやすい」「読みやすい」一辺倒なのでちょっとウッとなってしまった。読みやすい本だというならば、「読んで何を思ったのか」を感想に書いてくれればよい。多少なりとも新しいことを感じたとか、これまでの自分と違う視点を手に入れたといった、その本によって自分や周囲がどう変わって見えたのかを気軽にポストしてくれたら、そのポストもまた二次的な創作物として楽しめるのに、ほんとうにみな、「読みやすい」「読みやすい」しか書いていない。なんかもう少しないのか。本当に文章のコアにアクセスしやすいならば著者の思索にあわせて読み手のほうにも何らかの動きがあってしかるべきなのだが。つまりこの本は「読みやすいという感想」を真っ先に書きたくなってしまうくらいにリーダビリティが高く、その日本語能力の印象が強すぎて、内容のほうにコメントする前に140文字のリミットに達してしまうという、なかなかSNS泣かせの本なのかもしれない。自分で読む前に手に入れる情報としてはわりとダメなほうだったなと思う。私もまた「読みやすい」以外の感想が頭からふっとんだ状態でSNSに向かってしまうのだろうか。
手に入りやすければいいというものではない。しかし、多様で安価なプロダクトに囲まれて暮らしていると、なにかを選ぼうという自覚よりも先にアクセス性の良さの順にならんだコンテンツたちが勝手に我々の脳の中にパカパカ入ってくる。なんだかんだぶーぶー言いながらも私が毎日コンビニに入ってしまうのだって結局は「ドアから入って出るまでのことをなんの引っ掛かりもなくストレスゼロの状態として思い浮かべることができるから」な気がしてならない。やだなあ。周りに物が多すぎるから、熟慮したつもりでも、選びぬいたつもりでも、選んで数秒後にはもっといいものが検索クエリの先に出てくるかもしれないという不安におびえながら暮らさなければいけないんだ。
世の中は決して私のほうを見ていない。まるで自分向けに書かれているかのようなコピーライティングは、「こうすれば多くの人にストレスなく届けることができる」という技術と、世のあらゆる人びとのかかえる嗜好性の最大公約数とをブレンドして上清を抽出したものにすぎない。誰かがつぶやいた意味深な一言は絶対に私に向けたものではなく、誰もがつぶやいている今そのすべては私向きではない。だから、かえって、その日たまたまアルゴリズムによって一番表示されやすかったものが、「私のためのもの」なのだと勘違いできるように脳が狂っているのだと思う。脳はうまいこと狂わされたのだと思う。私たちはみんな、生まれた時にくらべて、選択圧によってうまいこと狂ってこの状態なのだと思う。ああ、これぞドンピシャの、私向けの何ものか、という錯覚の正体は、結局のところ「その人にとってもっとも手軽に手が届くものだった」というだけだったりするのだ。読みやすい本なら感動して感想を言いやすい。感想がつぶやかれるとそれが次の人びとに届いてまた売れる。くだんの作家は発売後、数日でこのようにつぶやいていた。「いっそわかりにくいものを書きたくなる。」わかるなあと思った。とてもわかりやすいポストだった。