「問う→答える→問う→答える」の流れが医療の現場には存在する。毎日いたるところに小さな教室が発生する。
かくいう私は病理医で、臨床医の問いかけに毎日のように応じる仕事についている。もちろん私が問い臨床医がそれに答える場面もたくさんある。
さて、「問う側」は生徒で「答える側」は先生だろうか?
やりとりで学ぶのは問う側ばかりではない。答える側もまた、問いによって動かされ、考えさせられ、気付かされる。問う側がいつしか場を牽引し、どこかに導いていくこともある。
問答というのは「どちらか一方」に寄っていくたぐいのものではない。でもここでソクラテスの話をするのはうっとうしいので今日はしない。
冒頭の私の投稿(Threads)のあと、しばらく考えた。
臨床医がつっかえつっかえ、自分が何にギモンを感じているのか未確定の状態から、少しずつ、「病理からはどう見えるんですか」と問いを立てるシーンに遭う。そこで私が「答えを用意する側」として仁王立ちし、「あなたの質問はこういうことですよね? それに対する回答はすでに準備してあります」とお仕着せのQ&Aに回収してしまうと、なんだか、いろんなニュアンスをぶっつぶしてしまう気がする。
FAQの無味乾燥さは学術好奇心を殺す。
Doctor's doctorなどという絶対に口にしたくないクソワード。病理医は臨床医にとっての教師として君臨するべきか? まったくそうは思えない。
問いを立て始めた人といっしょに、問いのゆくすえを見定めて並走する精神でありたいなと思う。
ぱっと答えればいいというものではない。すばやくたどり着けばいいというものではない。
目の前で問いを発した人とは違うだれかが、過去に通った問答の、思索の残像をトレースするだけで、今のギモンを軽々しく扱ってしまうことに抵抗がある。
ギモンが湧き出るまでの経緯、ギモンを語るときの声のトーン、ギモンを語る人の日頃のありようなどを注意深く聞き取りながら応じるとき、「あらかじめ用意した答え」がそのまま使えることはめったにない。
つい、「即答する自分」に酔ってしまいがちなのだけれども。
そういうことではないのだと思う。
ところでこういう話をすると必ずやり玉にあげられるのが「受験」である。
大学受験を前提とした試験の設問では、基本的に「問う」側が「答える」側よりも上の立場と考えられている。「問う側」が先生で、「答える側」が生徒。問いに回答や解法が内蔵されている。学生は問う側の意図を汲み、答えを用意する過程で構造を学ぶ。
そのことを揶揄する大人はたくさんいる。いすぎると感じる。「答えのある問題ばかりを問いていたから社会に出て答えのない問題を解こうと思ってもうまくいかないのだ」みたいな、それこそ用意された回答のようなことを平気で言う自称有識者にも、たくさん出会ってきた。今もSNS中にたくさんいるだろう。
そういう人たちに限って、「答えのある問題なんてAIに聞けばよい」とか「いまどきGoogle検索すれば答えなんていくらでも転がっている」みたいな雑な言い方をする。
でも、私は思う。たとえ「答えのある問い」だったとしても、それは早く手軽に対処すればいいというものではない。
「答えのある問い」を丁寧に彫っていく作業にはなにかおそらく大事なものがいくつも隠れている。
答えのない問いがどうとかクリエイティブがどうとかコミュニケーションがどうとか言いながら、みずからの思春期の怨念を若い人たちへの鞘当てに用いるような人びとに、「答えのある問い」は一段低く見積もられているふしがある。
でも、「答えのある問い」は、もっともっと味わい尽くせる気がするのだ。そこでもっと丁寧に振る舞える気がするのだ。
問いと答えの形式は千変万化である。受験的な問いと答えにも、ほんとうはたくさんの意味があり、得られるものは人それぞれに異なる。問う側は常に問われる。答える側もまた問いを立てるからだ。問いを立てる側と答える側は、お仕着せのQ&Aを超えた先を見据えて、「私たちは今、何にひっかかり、何を得たいと思って、誰に何を問いかけているのか」という思索の荒野を歩く。
問うこと、答えること、答えがあろうがなかろうが、そんなにかんたんに割り切れるものじゃないし、もし「割り切れた」としても、その計算過程にはたくさん汲み取れるものが隠れているのである。