bloggerありがとう

このブログはbloggerというGoogleのサービスを用いて作っている。毎日新しい記事を書く際にデフォルトで各記事の閲覧数が表示される。Twitterのフォロワーが15万人いたときも、1万5千人しかいなくなった今も、ここを訪れる人の数はそんなに変わっていなくて、だいたい1日に500人から1000人くらいが見にくるのが日常である。たまにどこかで紹介されると見る人が2倍、3倍と増えていく。しかし3000ユニークユーザーを超えて見られることはまずない。やりたいようにやっているのでそれでいいけれど、長くやっているわりにはあまり上手ではない。ともあれ読んでくださる人がいるというのはありがたいことである。

大学生のころホームページを作っていた。30代なかばにリアルで引っ越しをしたとき、クライアントでホームページサーバを借りていたことをころっと忘れたままネット回線をまるごと契約解除した結果、サーバにあったすべてのデータがふっとぶというやらかしをして消滅した。バックアップもない。Webarchivesからも消えつつある。今はもう痕跡程度しか探し出せない。しかしそのことをもったいなく感じているかというと、そうでもない。けっこう長くやっていたけれど累計の閲覧数は15万にも満たなかった。SNSがあったらもう少し増えただろうか? そうも思えない。その程度のホームページだった。思い出すことはある。しかし惜しいとはあまり思わない。

当時の私は何がおもしろかったのか、3日おきくらいにちまちまと更新をしていたが、読みに来る常連はたぶん30人もいなかった。それでも読む人がいたということに今と同じありがたみを覚えた。SNSによって30人が500人になったのが今だ。しかしSNSがうまくなっても500人以上には増えなかった。SNSを縮小してもやっぱり500人。それが私の文章のつながる世界の広さ。

40代も半ばを過ぎ、この先もおそらく、私がオンラインの文章で、世にいう結果(数字)を出すことはないだろう。

もし今、課金制を導入すると、500人の100分の1に相当する5名くらいがお金をくれる。たとえばbloggerを引き払ってnoteに移住し、月額500円のサブスクにしたとすると、すぐに契約してくれる人が5人くらいいるという見込み。インターネットでお金を稼いでいる人たちは、だいたいそういう計算をしているに違いないという偏見がある。なお月額500円のすべてが私のふところに入るわけではなく、たぶん100円?くらい?はnoteに入るだろうから、ひとり月400円として5名で2000円。ブログを平日まいにち更新するノリでnoteをやれば、月に20本書いたとして、記事ひとつあたり100円。なるほど私のブログ記事の金銭的な価値は月に100円。ちなみに月に1本書いても20本書いても2000円。だったら1本のほうが「効率がよい」みたいな発想がふと思い浮かぶ。金銭を介在させることで生じるノイズから自分が自由でいられるとは思えない。課金制とはつまりそういうものなのだ。

カレーのにおいが漂う蕎麦屋でふつうの鴨南蛮などを頼むのが難しいのといっしょだと思う。カレーのことで頭がいっぱいになるように、お金のことで頭がいっぱいになって、本来であれば日常の些細なことから絞り出されてきたはずの「書きたかったこと」の香りは感じ取れなくなる。消えまではしなくても五感がうまくそれを感じ取れなくなる。鼻毛にカレーのにおいがまとわりつき目は¥マークになる。

もらえる額がもっと多かったらどうか。毎月2000人が熱心に購読してくれるnoteのオーナーになれたとしたらどうするか。サブスク月500円として2000人いればnoteのピンハネをさしひいても毎月80万円が手に入る。ぜいたくができる額だ。ネットで毎日見聞きする有名noteのオーナーたちも、額はもっと派手だったりやや控えめだったりするだろうがざっくりとこれくらいのマージン手にしながらああいう文章を書いているのだろう。では、これだけの金額が入るというなら私は一も二もなくその世界を目指しただろうか。

20代ならやったかもしれない。しかし年齢の問題ではないかもしれない。効率を計算して類推と調整に忙しくなり蓄積に安心を求め戦略で発展をめざす自分の姿がどうしても想像できない。

課金を前提としたブログ更新をはじめた私はおそらく、ひとつひとつの記事がもたらす波及効果やブランド価値を思い、今と同じような内容を書き散らすことはなくなる。毎日好きなところで執筆をやめて勝手な分量で更新したことにしてしまう怠惰な更新態度は続けられなくなる。文章に対して慎重になり、思慮深くなり、総量としてPCに向き合う時間が減ることすらあり得る。文章で生活をするほうがかえって文章をいじくる時間が減るということだ。良い体験がよい文章に結びつくなどとうそぶいてデスクを離れてどこかに旅立ってしまいがちである。キーボードも今ほど叩かなくなる。マウスもそんなにガシャガシャやらなくなる。クオリティの低いものを世に公開することがもたらす意味をおそれ、今よりはるかにキータッチを躊躇する。立ち止まって見据えて探ってまた引き返すようなシーンがもっともっと増える。そうするとどうなる? ていねいに推敲を重ねていい文章を書き続ける人を世間は作家と呼ぶが、私の場合、作家性が上がっていくことはなく、単純に粗製乱造の流れがストップして生産性だけが落ちることになる。その結果、おそらくだが、めぐりめぐってきっとデスクワーク全般がへたになる。当然、病理診断の実力も落ちる。でもまあ文章で金を稼げればいいか、と、病理診断をあっさり切って文章だけに注力するようなドライな生き方が私にできるだろうか。できない。実験も性格もウェット一辺倒の私は病理診断というウェットでヒューミッドな仕事から離れられるわけがない。ただ自分の望みとしてはそうだが、仕事がへたになっているのだから、周りから見れば迷惑極まりない。スタッフにお願いしてノルマを減らしてもらうべく各方面と調整を行い、若手や大学に迷惑をかけながら数ヶ月かけて、後ろ向きな働き方改革を試みる。結果として仕事はつまらなくなる。仕事がつまらなくなれば中年クライシスの当然の行く先として美食や観光やエンタメの方面に気が散るだろう。食って寝るだけでこんなに幸せになれるんだなと大学デビューならぬ更年期デビューを果たすかもしれない。美食という名のもとに排泄以上の摂取を繰り返せばおのずと栄養過多になる。体重が増える。ついでに酒を飲むだろうし睡眠時間も確保してすべてが太りにつながっていく。キテレツ大百科でいうとわりとトンガリっぽかった見た目がブタゴリラみたいな雰囲気に近づく。暴力的ではないが創造性もない昼行灯としてのブタゴリラ。一時的にスタッフや学会関係者からは愛玩動物的に見られ、その後さほど間を置かずに、注目の範囲外に置かれて安穏な余生を送ることになる。あれ、今よりもわりといいのか?

ブログを長くやっているわりに向いていないというのは、今書いたような「数字に真正面からに向かっていけない性格」に負うところも大きいかもしれない。お察しのことと思うが、私は、金銭の話をするのが小っ恥ずかしいのだ。いい歳をして何をギラギラさせているのかと真顔でため息を付く。人類に次の大きな選択圧がかかったときに私のようなタイプはある種の潔癖症の方々とともに種の絶滅への歩みを進めるかもしれない。

しかしこうして書いてみると、現代においてものを書いて食っている人たちはほんとうに偉いとしみじみ思う。クライアントの顔をきちんと思い浮かべている。労働と対価のバランスに見合った持続をできている。

一方の私は草野球ならぬ草ブログが関の山だ。クライアントの顔を一切思い浮かべずに自分の心ばかり見る。手前勝手な没入型で、対価のために他者との調整を行うことをストレスと感じる。

私の書くことはたいてい私の中から浮き上がってくる。それは、もちろん他者との関係の中で入力された信号に対する反射的なものであったり、他者から受けた圧によってトコロテン式に押し出されてきた拠ん所ない感情であったりもするから、「自分のオリジナルの感情」というわけでは必ずしもないのだが、ともあれ、自分のゼロ距離から湧き上がってくるものであることに代わりはないし、誰かに依頼されて書くとか誰かのために書くといったものとは違うだろう。「誰かがいるから書いた」と「自分の中から浮き上がってきたものを書いた」は同時に成立する。それまで自分であったものを書くことは、他者から依頼されたものと比べればだいぶ楽なのではないかと思う。ところが実際に書き始めてみると、これがなかなか、そうそううまく言い表せるものではないから閉口する。さいしょからある程度完成された言葉で浮き上がってきたように見える何ものかを心の奥でひっつかんで、いざキータッチしたものを眺めてみると、なぜか心の中にあったときのそれとは雰囲気が変わってしまっているから難しい。「このビッグマック、チラシとずいぶん違うじゃないか!」「このオリオンビール、札幌に帰ってから飲むとそこまでうまくないじゃないか!」そういったままならなさと向き合うことになる。自分の中から出てきたものなのに、自分のそれまでの言葉では言い表せないというのは大変に興味深い。指先で使える語彙と脳の茨に絡み合っている語彙とが一致していない。ここに喜びのタネがある気がする。自分の心を文字にするという営みには互酬性がない。最近の知識人が大好きでしょっちゅう口にする「贈与」からも遠いところにある。心の中から浮き上がってくる自分 or 他者 or indeterminateなものに手を伸ばす。荒ぶる幼児のように手を伸ばす。いじくる。荒ぶる幼児のようにいじくる。そしてぐちゃぐちゃにしてしまう。荒ぶる幼児は仁王立ちに眺めて「あーあ。」とつぶやく。報酬もないし贈与でもないのに私を社会に向かってドライブする謎のモチベーションだ。なお目を$マークにしたとたんにこの楽しさはすべて濁って霞む。クライアントの顔を思い浮かべながら同時に蕎麦つゆの繊細な香りを堪能できる人でなければ真のnote作家にはなれない。はっきりわかる、私はnoteに向いてない。