これまでの私は、本を書いてほしいと依頼され、なるほどありがたいことだな、待てよ、これはもしや、何年にもわたって毎日考えていたことをひとまず書いてみればそのまま原稿になるのではないか? と思いつき、そのようにしてみたところ出版に求められるレベルに達した、みたいなことを繰り返してきた。
そんな私に、「今回はそのやりかたはしないでください。本を書いてくれと依頼されてから、つまり今日から、何を書くかを毎日考えてください」と伝えた編集者がいた。
言われた通り、まんまと毎日考えている。半年くらいが経過した。この半年はほんとうに、いずれ書く本のぼんやりとした書影をいつも思い浮かべながら生活をしていた。あと1年は考えてよいと許可されているから、まだ当分、このような生活が続くことになる。
一連の思考は依頼が来る前には生まれ得なかったものだ。執筆を目的として本を買う(資料として買う)というのも一時試してみた。しかし、なにせ執筆予定の時期がまだまだ先であるし、明確な目的を持って本を買うという行為自体に慣れず、今はまた適当に本を買うように戻った。本を書くために思考するという行為を、過剰に目的的にしてしまうとおもしろくないし、完全に忘れても今まで以上の本はできない。考え続けてきたことの延長にありながらも、本という縛りによってその延長のしかたを発散させずにどこかに集束させていく、というドライブのしかたを、毎日心がけている。
WorkFlowyの一番上に、私が書く本が収められる予定のシリーズタイトルをメモしてある。毎朝出勤するたびにそれを見る。1週間くらいでそれは当たり前の日常になってしまい後景に埋没してしまったが、うまく習慣化することはできたようで、今はWorkFlowyを見なくても出勤する途中にすでに本のことを考えている。一方で、映画を見るとかスイカゲームをやるとか、自分が外界に対して受動的である時間を少し長めにとるようになった。これはそうしようと思ったというよりはそうなってしまったという感じである。
行く末を振り返る。
期待と回想という逆方向の思索の周囲で毎日読んだり書いたりしている。ものを考えるときは椅子に居たり畳に居たりする、つまり「居る」のだけれど思考によってどちらかの方向に体が動いていくようなイメージがある。その向きが未来に溶けていくのか過去に潜り込んでいくのか、あるいはその両者を入れ子にして振動するようにふるまうのか。そういう微調整がありえる。
後ろを向きながら後ろに歩く、マイナス×マイナス=プラスの説明のような移動もありえる。
いちど気持ちを未来に飛ばして現在からそこまでの過程を振り返るという思索もありえる。
顔・視線の向きと、自分の重心が移動する向きと加速度を、機械的に組み合わせることで、さまざまな思索のありかたが想定できる。組み合わせによってはナンセンスな状態になることもある。その代表が「行く末を振り返る」という文字列だ。対義となる文字列は「来し方をさまよう」ではないかと思われる。この二つは実際には自然に達成することがむずかしく、脳にしばらくの間遊びに付き合ってもらうような「言い含め」が必要になる。
「来し方をさまよう」ことは文学だ。「行く末を振り返る」ことは科学ではないかと思う。
その両者を完全に分けることに意味があるわけではない。入れ子のようにして振動すればよいのだろうと思う。
来し方を振り返って行く末にさまようことは私にもできることだ。だから、できづらいことをやろうと思っている。