そういう表情

10分後には職場を出て駅に向かう。幸い晴れているから歩いて行こうと思う。春物のコートをもたないので少し薄めの冬用コートをまだ着ている。汗ばむくらいだろうか、まだそこまで温かくはないだろうか。時刻は7時前だ。札幌の朝日は弱い。今はまだ10度前後だろう。したがって気温的には今日のコートでも問題ない。ただ、妻を含めた多くの人は、季節とか周りの人びとにあった色、形のコートを選ばないと浮くよと言って笑う。たしかにそうだなという気が、今ならする。春物のコートがほしいなと思う。

昔はちがった。全身真っ黒い服を着るタイプのオタクがよく取り沙汰されるが、少々ニュアンスはちがうけれど、私も結局そういう、「部品ごとに自分が気に入っているんだから全体のとりあわせがどうであっても、周りとのかねあいがどうでもあってもかまわない」という服飾センスの持ち主であったし、今はそのことを少しはずかしいと思うけれどセンスの根っこの部分まで入れ替わったとは思っていない。

スーツは楽だ。革靴がへんでもベルトが安くてもネクタイが曲がっていても、とりあえずスーツというだけで少なくとも周りからはあまり浮かないでいられる。ジャージも同じ理由で楽だ。あまり着ないが。コーディネートができないままこの歳になった。ずいぶん前から出かけるときの服は妻に選んでもらっているが、それでも毎日妻コーデというわけにはいかないので、自分で適当に服を選んでいたり出勤のときの格好だったりはやはり今もちょっとおかしいらしい。ちょっとで済んでいるのでまあいいかなと思う。

おしゃれな人の服を見ているとふしぎな気持ちになる。そこまで全身を整えているのになぜそんな顔で笑うんだろうというよくわからないつっこみをしてしまう。顔のつくり、という話ではない。表情のことだ。良し悪しではない。気配りのほうだ。もっといい顔で笑わないとその自信たっぷりのコーディネートとは合わないのではないか。もっとからっとしていないとその粘着性の少ないコーディネートとは合わないのではないか。犬は飼い主に似る、みたいな話があるが、人はコーディネートに似てこないことがあると思う。そんなに素敵なかっこうをしているのになぜそのような表情でしか人を見ないのだろうという感覚はなんとも説明がむずかしいもので、しかし、せめてぼくは、「どことなくごちゃっとしていてちょっと騒がしくてどこかずれている感じの服装」をしているのだから「そういう表情」を浮かべて毎日をすこしポンコツに楽しそうに暮らしていきたいものだと考えている。ちょうど10分経ったのでこれから旭川に向かいます。ちょっとだけ季節にそぐわないコートを着て。