ケミカルの都合

人体から取り出されてきた細胞やら臓器やらは、そのままでは腐ったりへたったり(自己融解)してしまう。したがって、すぐにホルマリンなどの薬品に漬けて「固定」する必要がある。

ホルマリンによって雑菌が死滅する。さらに、タンパク質は「架橋」されて(例え話だけど実際そういう構造になる)、構造が壊れなくなる。最初にこのコンボを見つけた人は偉いなー。人体にとっては猛毒、という薬品の使い道を見つけた人は全員偉い。

ただ、固定しすぎてもだめである。72時間以上ホルマリンに漬けておくと、RNAはぶちこわれてしまい、後日検査しようと思ってもうまくいかない。DNAやタンパク質はもう少し持つ……とは言われているが、やはり72時間以上の固定だとさまざまな検査の切れ味ががくんと落ちる。

細胞というのはずーっとホルマリンに漬けておけばいいというものではない。昔からマッドサイエンティストの研究室とか古びた博物館の奥の部屋などには、ホルマリン漬けになった動物の標本などが置かれているのが定番であるが、あれは「見た目」が保存されているだけであって、遺伝子の情報はまず取り出せない。もっとも、剥製とか標本なんてのは、見た目さえ保たれていればいいと考えることもできるので、あれはあれでよいのだけれど。



人間の体の中から取り出した小さな組織片やそこそこのサイズの臓器は、「とれたねー、よかったねー」で終わらせてはいけない。細胞の情報を余す所なくしらべて利用しつくしてこそ、西洋医学が成り立つ。したがって、

・取り出したらすぐにホルマリンに漬ける
・ホルマリンに3日以上漬けてはいけない

のふたつのルールを厳密に守る。

一番いいやりかたは、ホルマリンに24時間くらい漬けたら、そこから取り出して、パラフィンとよばれる「ろうそくのロウ」的な物質に漬け直すことだ。このとき順番が大事。ホルマリンに漬けずにパラフィンだけに漬けてもだめである。まずはホルマリンでしっかりほどよく固定し、そしてパラフィンに漬け直すことで、細胞は半永久的にその情報を保持する。まあ……それだけやってもRNAは3年くらいでへたるけど……DNAやタンパク質はパラフィン漬けならずっと長持ちする。

ホルマリン浸漬→パラフィン包埋。Formalin-Fixed, paraffin-embedded (FFPE).

これが重要なのだ。ちなみに、ホルマリンやパラフィンに沈める際には、臓器まるごとをドボンとしてはだめで(中まで染み込まないから)、ホルマリンなら2センチ幅、パラフィンなら5 mm程度の厚さにまで切っておく必要がある。



検査や手術のあと、すぐにホルマリンに漬けて、24時間以上72時間以内……理想をいえば48時間以内くらいにホルマリンから取り出して、「切り出し」(検査したい場所を確定させて細かく切る作業)をした後に、パラフィン包埋処置をする。

これを現場できちんと運用しようと思うと、カレンダーによっていろいろと残業の必要が生じる。

たとえば金曜日の夕方15時にとある手術が終わったとしよう。手術後にすぐに臓器をホルマリンに漬ける。そこから24時間経ったら土曜日。48時間経ったら日曜日。72時間経ったら月曜日だ。月曜日の午前中にホルマリンから引き上げて水にさらして洗うとして、だいたい65時間くらいが経過していることになる。これ、けっこうギリギリだ。

月曜日が祝日になったらもうアウトである。「ホルマリン過固定」になってしまう。

だから3連休の前には「休日切り出し」をやらなければいけない。2024年のように、飛び石型の大型連休の場合、さいしょの3連休の初日に、前日手術された臓器をホルマリンから取り出して切り出し→パラフィン包埋まで持っていき、間に平日を挟んで(そこで手術も行われ)、後半の4連休の初日にまたホルマリンから取り出して切り出しを行う必要がある。


病理医は、患者に直接会う仕事ではないため、「フレックス」などと言われるし、実際まあなんか好き勝手にやらせてもらっていることも事実なのだが、好きなタイミングでホイホイ働けばいいというわけでもなくて、なんというか、人間の都合には左右されないのだけれどわりとケミカルの都合には左右されるのである。あっでも臨床医たちから頼まれる仕事は人間の都合だよなあ。