いちおう、自分の中での因果関係は今書いたとおりなのだけれど、実際には、「夜中に目を覚ますために→脳が言い争いの夢を選んだ」という可能性もある。
まだねぼけているが、なんとなくそういうことを考えながらトイレに向かった。外から強い風の音がする。トイレを出てふとんに戻る前に水道水で軽く口をゆすぐ。カランのスイッチがシャワーになっているのを忘れずに通常モードに戻してからコップに水を注がないと、ドジャーという音がおもいのほか家の中に響き渡って、家族を起こしてしまうかもしれない。トイレの水を流す音は気にならないが、シンクでシャワーがドジャーと鳴る音だと目が覚めてしまう。それは強い予感である。根拠に基づいた解説ではなく、度し難い予感である。
部屋は暗いままなので鏡もよく見えないが、何の気なしに自分の頭を触ったら後頭部の髪の毛が盛大にハネていた。朝までにこの寝癖を直すために、枕にまっすぐ頭を乗せて寝ようと心に決める。中学・高校時代の髪質だったらこの程度の物理的刺激では直らなかっただろう。毎朝、母がタオルを濡らしてレンジで温めたものを私の頭に乗せていたことを思い出す。しかし今の細くなった髪の毛ならばきっと枕の圧だけで直すことができる。寝入ってしまったら何度も寝返りを打ってしまうだろうが、それでも、やらないよりはましだろうと、髪をなでつけるように手でおさえながらそっと枕に頭をつける。そして目を閉じる。
寝入りばなになんとなく足を交差するクセがあるのだなといったことが気にかかる。少し胸が苦しい。胸の筋肉が吊っているのかもしれないし、冠動脈が微妙に細くなっているのかもしれない。そうして→私は珍しく死のことを考える。起きて歩いているときにはまず考えることのない、死の先のことを深々と考える。強い風が吹いている音は→脳に微弱な予期不安をもたらすのかもしれない。ヘビやコウモリに→おぞましさを覚えるように、糞便のにおいから→遠回りをしたくなるように、私たちがプログラムされているのと同じように。
私はいさかいの夢を見て、夜中にトイレに起きて、寝入りばなに死の恐怖についてしばらく思いをめぐらせる。一連の行動における因果の矢印は、どこからどこにつながっているのだろう。じつはすべては偶然のなせるわざだ。お互いにつながっているわけではないのだ。しかし、偶然を呼び込んだ私の脳にはおそらく複雑系としての因果が含まれている。
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マスクをすると→息苦しく感じる人がいる。あれもおそらく、人間が種を存続させるために必要なプログラムのなせるわざだろう。寝ている間に木の葉っぱや布のきれっぱしなどで気道が軽くふさがっただけで不快感を覚えて、すかさずそれらをはねのけることは、生存にとってちょっとだけ有利だったのではないかと思う。マスクをしたところで我々はCO2ナルコーシスにはならない、それでも「なんか息苦しい」と感じるとは、冷静に考えれば「感覚が過剰」なのだ。でもその過剰にもたぶん意味がある、あった、のだと思う。それはきっと我々の日常において使える意味ではないのだけれど、長い進化の過程においてどこかで何度かは意味があったことなのではないかと思う。
口の中に入った髪の毛に→すぐ気づくというのも、思えば過剰だ。会話している人のほっぺたや鼻の上にまつ毛が乗っかっていることがあって、本人は気づかないのでそれを指摘する、みたいなことをたまに経験する。しかし、毛が入り込んだのが口の中だと誰でもすぐに気づく。髪の毛の太さなんてせいぜい80 μmくらいだ。食べ物の中にそんな細いものがたった一本混じっている、それをひと噛みしただけですぐに気づいて舌で選り分けて口の外に出す。芸当だ。体の他の部位の感覚からすると、明らかに過敏だ。でも、これもたぶん、人間が種を存続させるために必要なプログラムのなせるわざなのだろう。食べ物の中に植物のトゲや魚のホネが混じっていれば消化管穿孔を起こすリスクがちょっとだけ上がる。加熱調理のない時代であれば内臓の蜂窩織炎を起こすリスクにもつながっただろう。毛ほどの細いものを口の中で感じ分けることが生存に有利だったはずだ。今の世の中でそんな機能を使うシーンがどれだけあるかはわからない。
人類が猿から片足を抜け出したころの機能の名残がいまも人体のあちこちに残っている。それらはときに「本能」などと称されるがあまり丁寧な言葉ではないし、学者の中には「猿だったころの行動を今の人間にあてはめるなんて野蛮だしナンセンスだ」と眉をひそめる者もいる。それでも、私は、日常はとんと忘れている死の恐怖とうっすら対峙する真夜中、生きるために有利な行動をさんざん選び尽くした脳がよかれと思って設定している思索の時間を、いやだな、めんどうだな、つらいなと思っても、いずれ自分のためになるのかもしれないなといって、私自身をなぐさめたりしている。ああ眠れないでいるうちに→ブログが一本書けてしまった。