シンパもアンチも小さくなった

かつてメディアが「最大公約数のためにしゃべれる人」ばかりを選んでメッセージを出していた頃、「テレビだけ見ていてもわからないこと」があちこちに転がっていた。

誰もがテレビを見ていたけれど、当然のように世界はもっと広く、テレビはすべてを与えてはくれなかった。

空間を共有する実体験のよさがどうとか。テレビではなく本を読めとか。そんな話を毎日のように耳にした。

当時、「アンチテレビ」は商売のやり方として立派に成り立っていた。「テレビなんか見てんの?」という煽り文句も有効であったと思う。「テレビなんか」には映し出せない壁の向こうや襞の裏があった。いい大学を出た研究者や、朴訥な芸術家たちは、こぞってテレビが映さないものに肩入れし、テレビ愛好家たちをバカにした。


その後、SNSをはじめとするオルタナティブメディアによって、テレビは単なるいちメディアの地位に退いた。結果として、「テレビなんか見てんの?」という言葉の有効性も失われたように思う。

「テレビを見ずに勉強すれば人より賢くなれた」という状況は、テレビのもたらした共通認識がある世の中で、「それ以外」の知識が特別に輝いていたからこそ成立した。

今のテレビは、国民に何か共通のものをもたらすものではない。したがって、アンチテレビのスタイルもしっくりこない。「テレビ? 見てる人は見てるよね」で終わりである。




誰もが人と違うものを見ている。博覧強記の人というのも成立しづらくなった。いつのころからか、クイズ番組には出題にあきらかな偏りが出ている。東大王も脳トレパズルや建築、世界遺産、歴史などには強いが芸能の歴史には妙に疎い。どれだけ物知りでも現代の世の中に存在するメディアすべてにアクセスすることは不可能で、あれもそれも知っていたからといってどれもこれも知っているとは限らない。テレビ以外に注目していれば異端でいられた時代ではない。テレビを見ていなければ知ることができない知識すら存在する。


「Twitterばかりやってないで現実を生きなさい」という言葉も空虚に聞こえる。現実に生きているだけでは絶対に経験できないことがSNSに落ちている。現実でもSNSでも扱われない話がラジオから聞こえてきたりする。どれかだけに入り浸っていてはわからない。現実だけでは網羅できないし現実なくしても網羅できない。じつは誰ひとりとして網羅できない。






先日、院長面談というのがあった。病理診断科主任部長である私は15分くらいの予定で院長応接室を訪れ、院長・事務長・副事務長などと話し合い、予定を大きく超過して45分程度の面会になった。話の内容は、経営、人事、研究、臨床など多岐にわたった。

当院には私を含めて複数の病理医がいる。ありがたいことである。

一方で、系列病院の中には、少ない病理医でなんとか仕事を回しているところもある。この先病理医が高齢化したとき、次の病理医をどのようにリクルートするかは大きな問題となっている。都市部では病理医が余り始めているが、地方では病理医はまだまだ足りない。

私は、

「これからの病理診断は、バーチャルスライドシステムを用いて、遠隔でほかの病院をどんどん応援していかなければいけないでしょうね」

と述べた。

するとひとりがこのように言った。

「バーチャル化は時代の流れですよね。このさき病理診断はどんどんオンラインでなされるようになりますよね。では、先生から見て、今、バーチャルではいけない理由……生身の病理医がいなければいけない理由はあるでしょうか」

この質問はよくもらう。だから答えもすぐ出てくる。

まず、「切り出し」という業務はその場にいなければやっていけないですね。「細胞診のチェック」という業務もできれば現地に病理医がいたほうがいいでしょう。そして病理解剖。解剖はバーチャルではできません。

そしてなにより、「現場の医師と廊下で立ち話をする」とか、「ふとした疑問に答えてほしいときに病理医にすぐ会いにいける」ということが、生身の病理医の存在意義として大きいと思いますよ――――



現場に生身のプロフェッショナルがいるだけで、私たちの業務は、感覚として確かによくなる。楽にはならないが深みが出る。キレは変わらなくてもコクが出る。

しかし。

「生身の病理医じゃないと病理診断はできませんよ。バーチャルスライド? AI? デジタルパソロジーなんかぜんぜんだめですよ」

とまでは言えない。

それはなんというか、「テレビなんか見てんの?」を焼き直しているだけのように感じるからだ。

生身の病理医であるところの私は、医学領域におけるメディウムのひとつでしかない。私の暮らす病理学は、呆然とするほどに相対化されてしまっている。アンチデジタルパソロジーをやっている場合ではない。シンパやアンチが成り立つほど世界は単純ではなくなってしまったのである。