Z会にもかつてそういう企画があった

AI関連の講演をしてほしいと頼まれているのだが、あまり気が進まない。病理診断関連のAIについてはなんというか、飽きてしまった。AIという概念自体には今もわくわくするのだけれど(人のやるべきことをPCが代わりにやってくれるというのはドラえもんに育てられた私の夢だ)、自分が病理AIの研究に携わって何かいいものを作りたいという気持ちはなくなった。たとえるならば、ブレワイやティアキンが大好きだということと、ゼルダシリーズの続編を開発したいと思うこととは完全に別次元だろう。そういうことだ。リンクをぐりぐり動かせるのはすべて優秀なプログラマーたちのおかげであり、そこに対するリスペクトはもちろんあるし、自分がプログラマーになれるとは思わないしなりたいとも思わない。これらの思いは互いに矛盾しない。そういうことだ。

しかしうっかり2021年前後に何本かAI関連の論文に携わってしまった(あのときはもう少し興味があった)ばっかりに、今も講演依頼がくる。わりとまっすぐにお断りしているのだけれど、それでも押し切られてしまうことがたまにある。今回は押し切られた。

医療従事者の世界には、「講演を断る人なんていないでしょ」という先入観がうっすらと存在している。光栄でしょ、お金もあげるから、みたいな損得の話以上に、「えっ、講演なんだから受けるでしょ」という、論理になっていない論理が根強くある。先方は、私が依頼を引き受けるであろうことを前提で、学会や研究会のプログラムをすっかり整えておいてから最後に依頼を出してくる。だから依頼を断ってしまうと本当に多方面に再調整の苦労などのいらぬ負担をかけることになる。よっぽど後ろ向きの理由がなければ、あるいはすでにほかの会で日程が埋まっているということがないかぎりは、断らないし、断れない。

やるからにはちゃんとやりたい。しかし今回はいろいろ苦労しそうだ。いつもは依頼がくるとだいたいこんな話をしようとプレゼンをすぐに作り始めるのだけれど、今回は依頼から3か月経ってもまだプレゼンを作る気にならない。

AI関連の講演に気が進まない理由の一つは、業界の発展の速度だ。はっきりいって、3年くらい前の私の研究内容なんて、今しゃべっても新しくもなんともない。「AIの古くなるスピードのえぐさ」は、医学研究領域においては例外的である。

多くの医学研究においては、古くなるということイコール科学を支える土台になるということである。100年前にみつかった病気の概念、50年前に提唱された病気の分類、10年前に開発された検査手法などが、体系としてミックスされて、「巨人」を形成し、我々はその巨人の肩の上に立って今の医学を行う。だからたとえば私が「胃X線検査と病理組織像の対比」というネタで講演をたのまれ、「胃X線なんて古いからもうやらないよ、とっくに内視鏡検査の時代だよ」と思っている人たちの前でしゃべるとしても、それを私が思い出話とかおとぎ話みたいに語るのかというと、そんなことはなく、ちゃんと「胃X線検査の全盛期にみつかった形態学的な理論」を今に投影して新しくしゃべることができる。X線診断学は古い医学だからといって古ぼけているわけではない。貫禄を増すことだってある。まだまだX線に携わっている人もいっぱいいる。携わっていない人向けにもしゃべれる。しゃべり甲斐がある。

しかし、AIは違う。「弱い教師付き学習」なんて、iPhone 5sより古い。しゃべるのがはずかしい。過学習? うわあ、学生でも知ってる。AIの誤診した症例を形態学的に解析? うーん理学部のゼミでやるような内容だ。

現在、AI研究に少しでもたずさわっている人から見ると、私が今度しゃべる内容はそもそも興味の持ち方が古いし、理論も基礎的すぎる。そして何より、私はその「古いAI研究」を、おもしろおかしく語ってふくらませて今の科学への導線とするような語り口とモチベーションを持っていない。

とはいえ、この話はすでに引き受けた。となると、私は、その会で私がしゃべるのを聞きたいと思ってくださった数人と、なんかよくわからんけどあいつがあれをしゃべるんだなというふんわりとした印象で話を聞きに来る人たちのために、しっかり準備をしなければいけない。

「AIの研究」という言葉から感じるわくわく感、それはかつての私には確かにあったはずであり、今もおそらく多くの医療従事者の中にあるであろうもの、それに一度はきちんと対峙して、行動をし、そこで見えたもの、考えたことがどうだったのかをきちんと語る。それは言ってみれば私が「挫折した道のり」を語るようなもので(それなりに論文は出したので挫折とは違うのかもしれないが、気持ち的には挫折に近い)、「しくじり先生」とか「不合格体験記」とも通じるところがある。あーうーーーんこういうしゃべりってすごく難しい。ポイントは暗くなりすぎないことだろう。底抜けに明るく語ったほうがかえって「ずれ」は際立ち、聴衆はそこに言外のなにかを感じ取ってくれる。AIなあ……。私にプログラマーの素質があれば、もっと医学じゃない部分で興味を持続させることができたのかもしれない。あるいは、AIなんて私のやりたいことをぜんぜん叶えてくれないんだという、細部の話を興奮しながらしゃべるというのも、手法としてはあり……なんだろうけれど……今もAIの研究をばりばりやっている医療者もいるわけで、そういう人たちにとっては失礼な話になってしまうよなあ。病理AIって私のやりたいこととはまるで方向が違うんですよ。でもあなたがたのことは尊敬している。これをうまく語るためには話術がいるだろう。話芸の訓練をしなければいけない。それが一番、気が重い。