インターネットリ世代

「自分の思ったとおりに、随意に、しゃべりたい量だけ、しゃべることがあるかぎり、しゃべり通す」ということ。

近頃はほぼない。できない。

若い頃はやっていたかもしれない。そのときまわりにいた人たちは、きっとずいぶん我慢していただろう。というか我慢できなくて怒って私のもとから去っていった人もきっとたくさんいただろう。




学生から人気のない先生は、しばしば、学生のほうを見もせず、自分がしゃべると決めたことを、台本を読み切るかのように語る。

私も講義をするからわかる。これをやると、途中でついていけなくなった生徒から順番に睡眠に入る。着々と寝る。

そうやって学生が寝てもおかまいなしにしゃべるタイプの先生。私自身も習った経験がある。高校にもいたし大学にもいた。大学には特に多かった。

「ついてこられないやつが悪い。脱落組はほうっておいて、最後までついてこられるやつのためだけに私はこのまましゃべりきる!」

気持ちはわからなくはない。学生の甘えをいちいち許していられない、という事情もある。「そういうしゃべり方でも寝ない学生だけが、何かを学びとっていく」という成功体験もある。

しかしまあ上意下達を疑いもしない態度だなとも思う。

先生が一方的にしゃべることの賛否はいったん置く。朴訥に淡々と1時間半語り続ける日本史の先生のことだって、私は好きだった。


ただし「賛否」があるのはあくまで語り手が先生のときだけだ。

一般的な社会において、お互いが先生役でも生徒役でもないときに、あるいは、講談師役でも客役でもないときに、一方が延々と語り続けるというのは、それはもうなんか暴力と判断されるのではないかと思う。


相手の反応を見ながらしゃべる内容を変える。途中で切り上げる。ふと横道にそれる。それが社会の常識だ。一本道でアクセルベタ踏みみたいなトークはコミュニケーションにならないしシンプルに嫌われて避けられる。自分の脳内にあるものを全部出して相手がそれを全部受け取ればなにかの役に立つなんて意味のことを述べたら最後、必ず言われるだろう、「あまりに幼稚だ」と。

自分の言葉が相手に触れたところで起こる光電効果。言葉の接地面から飛び出してくるニュアンスの粒。私たちは無意識にそういうのをすくい取って解析している。「あっ、この話はいま響いてないな」と思ったらスッと打ち切るし、「いったんここでどう思ったか聞いてみようかな」と相手にバトンをわたしたりする。

こうして書くと難しいことのようだが私たちはみんな、多かれ少なかれ、やっている。

ちなみに、「しゃべりのうまい関西人」のテンプレとして、だらだらと一人語りを続ける人が息を継ぐタイミングで「オチは?」とツッコんだり、「ボケにボケを重ねない会話なんて二流」と言ったりするのも、コミュニケーションの現場でひとりで完結するような物言いをする人に圧をかける意味ではけっこう役に立つのかもしれない。



ところが社会の皮を被りながら社会じゃない場所というのもあるので困るのだ。

それはたとえば医療系の「学会」や「研究会」。

セッションの時間は決まっているのに、発表者は時間を守らず自分の台本に忠実にしゃべりたいことをしゃべり続け、座長は時計を見ながらやきもきし、フロアからベテランがだらだらと質問を繰り返す。

典型的なコミュニケーションエラーでフロアがパンパンにふくれている。大人がおおまじめに逸脱しているので参ってしまう。

「自分がしゃべりきること」しか考えていないヤカラに限って、しょっちゅうマイク前に立つので始末が悪い。ちなみに私もおそらくかつてそういうタイプだったので(今もか?)、これは自己嫌悪でもある。

学会や研究会に参加する大多数の人は、たったひとつのセッションのために魂を燃やしに来ているわけではなく、いくつものプログラムを見て回ることを楽しみにしている。勉強することはたくさんある。そんなとき、ひとつの会場の進行が遅くなってしまうと、議論を最後まで見ないで次のセッションに去っていかざるを得ない。

すなわち業界を閉塞させ新陳代謝を止める行為でもあるのだ。有害と言わざるを得ない。

「自分がこれからしゃべることを全て受け止めればお前たちの役に立つぞ」とばかりに、一方的に言葉を浴びせかけるタイプの学者は、学問を志す人々にとっては迷惑なのである。もう、ほんとに、自戒しつつ。




さあ、えーと、今日の結論だ。そういった、「しゃべり切ることしかできないタイプの迷惑な学者」だけを一同に集めて、「予定:1時間半、現実:16時間半」みたいな研究会をまたやりたい。

ここまで書いておいてまさか結論がこっちに触れるとは正直自分でも予想していなかった。

「また」というのは、昔はそういう会がけっこうあったということを意味する。

IBD、肝臓、胃腸、ひとつの会場に何百人も学問オタクを集めて、時間無制限でひとつの症例の議論をとことん深堀りしていくような会。あらゆる学者にとにかく「最後までしゃべらせる」のがルールだ。いい年をした大人が思いの丈を最後までしゃべり通すというレアな体験。社会では許されないが研究会なら許されるという時代が確かにあった。ディスコミュニケーションとハラスメントのるつぼである。当然、会場でそれを黙って聞いていたほかの学者たちも、「そんなわけないだろう、俺にも最初から最後までしゃべらせろ!」とばかりに次々と論戦を挑むから、タイムスケジュールはめちゃくちゃになる。あらゆる人が「最後までしゃべり切る」とどうなる? 結論なんて出ない。火だけが付くのだ。しかしその熱量が何年経っても次の学問の駆動エネルギーになっていたりもする。パシフィコ横浜の大ホールを夜通し貸し切った会では、飯屋がぜんぶ閉まるから各自おにぎりを持ち込んで、夜中に各自それを食べながら議論を行ったという(会場飲食禁止では……?)。

ひどい話だよね。もう絶対にやりたくないじゃん。

でも私たちは十分いま、社会人をやっていて、普段はきちんとわきまえているよ。

たまにコミュニケーションを度外視した、学問だけのための会で、「しゃべり切る」をやったって、バチは当たらないと思うんだよね。

だからやるんだ。でもネットには載せない。物見遊山のやからはいらないから。脳内に広がる学問的風景をカスになるまで絞りきって夜通しバトルできるタイプの人は、告知なんかしなくても、勝手に聞きつけて集まってくる。なにせ私たちはちゃんと社会的なコミュニケーションだってやっているんだから。こういうときのために、うわっつらのつながりじゃない、ねっとりしたつながりを相互に結んでいるのだから。これぞまさにインターネットリ(言わなくていいことまで言ってしまう)。