「きみは顕微鏡をよく見ていてえらいなあ。細胞の所見をきちんととっていてえらいなあ。」
これ。病理医であることをほめられたいとはあまり思わないが、細胞を真摯に見ていることをほめられたい。そこをほめられたらすごくうれしい。細胞のようすを的確に書き表した病理診断報告書を、臨床医が読んですごくよくわかると言ってくれるのが何よりもうれしいのだ。そして、かくのごとくほめられるためには当然のことながらたくさんのハードルを意識する必要がある。ハードル走というのはハードルを飛び越えるための脚力も大事だがそれ以上に見通しを立てる力というかリズムを合わせる努力がカギになる。
細胞を虚心坦懐に見てそのようすを丁寧に書き記す。そのためには細胞を見るという部門で不断の努力が必要なのと同様に、見たものを書いて読んでもらって納得してもらう力を養うべく普段の努力が必要だ。前者は不断であったほうがよく後者は普段化していることが望ましい。そこにはニュアンスの差がありやるべきことがちょっと違う。
「病理医をやっていてえらいなあ」には、ほめられるために必要とされる日常的な努力が感じられないからつまらない。しかし「細胞をよく見ていてえらいなあ」のほうはほめられる直前の数分にも細胞をきちんと見ているくらいでないと、とうていほめられるレベルに達しない。私は細胞をよく見る病理医としてほめられたい。口が回るなあとか講演がおもしろいなあとかではなく、見た目が若いなあとか愛らしいなあとかはまあ別の意味でほめてもらいたいけどそういうことでもなく、とにかく、「細胞のようすをこんなにきちんと調べて書いているのはえらいね」の一点でほめられたいと思ってそれを目指してやっている。
最近は本を読んでいるとうたたねをしてしまう。ただそこで本当に問題なのは、眠たくなってからの10分くらい、がくがくとしながらもページだけをめくっていて、結局寝落ちしてしばらくして目覚めて、そこからまた読書を再開した時に「数ページ分ほとんど意識なく自動で読んでしまった部分をまあいいかと思って読み飛ばしてしまうこと」だ。あれーここまで読んだっけなあちょっと戻って読み直すかあ、というのを昔はもう少し丁寧にやっていた。しかし今は、なんか、そういう偶然で読み飛ばしてしまったところをそのまま放置しても別にいいか、くらいの気持ちで先に読み進めてしまう。雑である。「あなたはとても丁寧に本を読むんですねえ」とほめられたい気持ちが少しでもあれば絶対にしないタイプの読書である。でも私はべつにそういうほめられかたをしたいとは思わないのであった。人間は、具体的にこのようにほめられたいという欲望で自分をうまく駆動しておかないと、少しずつ雑になっていく。私は読書に対して雑になっていくばかりだ。いっぽう病理診断はほめられたい分すこしずつ丁寧になっていく。ほめられることはとてもいいことだ。一番いいのはまだほめられていなくて、これからほめられるかもしれないと思って自分が奮い立つその瞬間だ。