折り鶴をほどく

目の奥が重く右手の薬指の腱に鈍痛がある。頸椎症は回復し内痔核は落ち着いた。五体にすこしずつせめぎあいが発生しており総体としての私が今日も昨日とほぼ同じ私でいられることを言祝いでいる。昨日から引き継いだ仕事を少しふくらませ、まだ軌道に乗っていない仕事にむりやり推進力を与えるために共同研究者にフライング気味のメールを送る。昨日を見越して明日をふりかえる。前、後ろ、右、左ときょろきょろ視線を動かしているうちにグラウンドに私の靴の後がたくさんついている、その模様を、私たちは現在と呼んでいる。トンボでならして消えていく。

過去と未来の交錯点が現在なのではない。過去と未来がごっちゃにかかれたコピー用紙を任意のヤマオリ線で折りたたんだときに折り目の角にあたる部分が現在だ。鶴を折ってからほどいて元の紙に戻したものを眺めれば錯綜した折り目が見えるだろう。現在だ。現在とは過去と未来をぐちゃぐちゃに分割する格子模様であり、単純な物理法則によって規定されているにもかかわらず任意回数の繰り返しによって予測が困難になる複雑系である。

滝壺から少し離れたところに立って体に和紙を巻き付けてしばらく待ったときに水しぶきがかかって和紙がふやけて体が見えてくるとしたらその見えてくるセクシーな体表が過去、残った和紙のなす模様が現在、滝壺から飛んでくる水の飛沫ひとつひとつが未来。未来は過去をあばき間接的に現在に希望という名の残務をつなぐ。

培養細胞の未来はFBSの中に溶けている。培養細胞の過去は大学院生のPCの中で未整理なファイル名を与えられて論文にまとまることなく忘却されている。共焦点顕微鏡を買うための大型科研費の申請書類にコーヒーをこぼした講師の涙が現在だ。過去はあり得た未来を希求してどこにも届かない声で泣き、そのとき震えた声帯をフーリエ変換すると現在がプロットされて、未来は研究者の思惑と関連せずに培養細胞をただ活かし続ける。


これを読まないという微調整があり得たしこれを書かないという偶然もあり得た。時間の流れを語るにあたって鋭角に尖った図を用いて収斂という言葉を使うことに違和感がある。状態とは一点に集約することなく模様として存在する万華鏡のようなものだろう。不確定の確率を観測すれば一つに定まるというのもまた方程式が好きな私たちのありふれたかんちがいだ。立体を作り上げるための展開図は無限のパターンから選び取られる必要なくただそこに「選ぶことも可能ではある状態」として無造作に置かれる。

人生が選択の連続だという冗句を疑わない人間たち。「選択するという見方を選んでしまう」というのは、魂に延々と課税されていることに等しい。私たちは、たぶん、おそらく税金を払いすぎるくらいでちょうどいい。損をしながら暮らしていると嘆くくらいでちょうどいい。選べと強制されるよりもずっと、選ばされていること気づかないほうが幸せに決まっている。ああ、うっかり、幸せというひとつの状態に固定してしまった。追ってしまった鶴をほどいて幾何学的な模様を意味もわからないままに眺めていると何度も折り目を付けた緑色の折り紙の色素がはがれて白い地が顔を出した。現在の輪郭がぼやけ、過去と未来それぞれとの境界がわからなくなってdemarcationできなくなってようやく時空に近い現象を見ている気持ちになってくる。