毎日ペットボトルのお茶をコンビニで買うなんてのはほんとうにお金をドブに捨てる行為で、しかもそれが極上のウーロン茶みたいな家ではまず出せない味だってならともかく「やかんの麦茶」ってお前それ家で作れよ10分の1くらいの値段でできるんだからよ! みたいなツッコミを受けても受けても結局わたしはコンビニでお茶を買ってしまう。年を取れば取るだけカフェインにも弱くなり、もはや緑茶も紅茶もペットボトルであっても若干心臓に負担がかかるようになってきたので近頃はジャスミン茶かさんぴん茶か麦茶しか選択肢がない。ジャスミン茶はもう一生分飲んだからいらない。さんぴん茶は沖縄で飲まないとおいしくない。オリオンのノンアルがさんぴん茶だろう。そして家で入れた麦茶をいくら冷やしてもコンビニの麦茶を138円で買ったやつにはかなわない。こうしてわたしは今日もコンビニで冷えた麦茶を買うのだ。原価厨はけいれんしロハスなマダムが息を吸いきってひっくり返る。知ったことか。わたしはコンビニで冷えた麦茶を買う。
手元に飲み物がほしい瞬間は突然おとずれる。朝は別にいらないから持って出るつもりはない。ほしいときに飲む。飲みたいときに飲む。飲み終わったら入れ物ごと捨てる。欲望と物性との共時性こそが圧倒的正義であり圧倒的合理性である。快感。かばんの中に水筒という重くて邪魔なものが入っていない状態が達成できる快感。「わたしはコンビニのお茶くらいならあまり気にせずに買えるようになった」というのはつまり割礼である。子供のころはおろか大学生時代にも絶対にやれなかった雑な金銭感覚を常時持ち続けていることへの背徳的な優越感。
そしてわたしはコンビニでお茶以外のものを買わない。コンビニのスイーツを喜んで食べるやつらは全員南極の氷が割れて漂流するペンギンのかわりに地球温暖化の影響を一身に背負って南氷洋に消えていけばいいのだ。油によって味を高めているおにぎりのくどさ。2品目くらいしか存在しない野菜。ちょっと自炊するだけで何十倍も安くてうまくて健康的な飯にありつけるのにコンビニなんぞで小腹を満たすのはおかしい。選挙公約のように「コンビニの飯を食うな! とゴチックで額に書く。キンコンビニの飯を食うなマン。そんなわたしがなぜか麦茶を毎日コンビニの定価で買っている。矛盾。矛が折れて盾が砕け散るタイプの矛盾。最弱の矛と最弱の盾とが戦ったら勝負は両成敗である。
こういう感じのキャラクタを磨き抜いていきたいなと思っていた。しかしわたしは年を取った。コンビニでお茶を買ったり買わなかったりする。今日はなんか高く感じるからやめようとかいう。コンビニの菓子パンをときどき食べる。「食べないことにしています」みたいな決め事を人前でいいふらす人間の思考回路が単純すぎるのでAIなのではないかと気にしている。もっと複雑なもんだろう。もっとあいまいなもんだろう。たまに節約するしたまに体に悪いものを食べる。総体としてなんとなく平均的な暮らしをしつつときどきちょっとだけ散歩道をはずれて路傍の花にしゃがみこんで花びらをつまんでみたりする。コンビニのお茶ひとつで人間がわかるわけない。とはいえ哲学書100冊ならべたところで人間がわかるはずもないのだ。身体によって制限されるのと同じようにわたしはコンビニや人の目によって制限された枠の中でそれでも自由に遊んだり厳しく働いたりする。ああ、転職の誘いのメールが来た、どうしよう、どうやってあやふやに断ろうかなあ……。