パフォーマンスコスト

朝から1例しか診断していない、しかもそれも他の医師が診断したものをチェックしただけだ。あとはずっとメールしている。臨床のために尽くすことが医師の本懐とするならば、今日の私の仕事量は研修医よりも圧倒的に少ないので本懐を遂げられておらず本懐を虐げているかんじだ。たとえば私が今朝の仕事をした先でより多くの医師たちが患者に真摯に向き合えるというならば、この下働きにも大きな価値があるといえるだろうが、朝からやりとりしている内容はそういうものでもない。すなわち本日の私は徹頭徹尾他人の役に立っていない。おまけにこの時間には給料が発生しているのだから役に立っていないどころか足を引っ張っていると言っても過言ではない。そこまでわかっていてなぜメールをするのか。理由は私が人びとの間で宙吊り気味に暮らしているごくふつうのサラリーマンだからであり、あらゆる行動に大義名分や高邁理想や福祉正義が込められているかというとそうではないからだ。卓球選手は決してパカポコラリーを上手に続けるために卓球選手になったわけではないと思うけれど試合前の肩慣らしの際にとりあえずパカポコラリーをする。そして私は肩慣らしでも脳慣らしでもないのにパカポコメールを打っている。


患者をひとりずつ病理診断しつづけることで、患者や主治医にとってはいろいろないいことがあり、もちろんそれは多くの場合つらい申告になってしまうのだけれど、社会の多くの場面で白黒が決まらなくなってきたこのグレーな世の中で、誰かのその一瞬の病態がこうであると「確定」することには、おそらくいくつかの良いことがある。

ただ、この、「ひとりにひとつずつ診断を下していく仕事」は、年齢を重ねるごとにそこそこなめられがちだな、ということを近頃はたまに考える。

たとえば「教育」をすることで、自分と同じくらい診断できる教え子を100人増やせば、自分ひとりで診断し続けるよりも100倍いいのではないかとか、「研究」をすることで、何万人もの人の命を救うといった話。とてもよく聞く。診断一本で部長職にいるとほぼ毎週耳にする。

言いたいことはまあわかる。しかし教育や研究が大事だよというときの語り口はうっかりするとコスパ論のようにも聞こえる。目の前のひとり、目の前のひとり、あと20年間診断し続けて、定年退職したらそれで終わりだけど教育とか研究をしておけばその先にもあなたの診断の結果が広がっていくんですよ、と言われるたび、「教育とか研究をしたほうがコスパいいんですよ」と言われているように感じてしまう私がいる。

日頃から、「コスパやタイパの話をするのは若い人のほうをちらちら見たがる中年だけ」という持論をふりかざしているので本日は少々はずかしいのだが、一例の診断よりも教育とか研究のほうがコスパいいよと言いたい人たちと「そうだね、そのとおりだ」とか言って話を合わせつつ、それでもなお、一例の診断に心を砕いていくというのが市井の病理医のありかただよなあと思う。そこまでわかっている。そこまでわかっているのに今日も私はチャカポコメールをしている。何周矛盾したら気が済むのだ。