脳だけが旅をする

鼻につく~相手だ~お~ん~な~の~こ~。韻があっているだけの替え歌を歌っているとそんなコンプラ的にアウトな歌を歌うのはやめなさいと言われてしょぼんとなる。意味なんてどうでもよくてただ韻が的確にハマっているかどうかだけで楽しんでいる……といくら言っても世間は許してくれない。意味というのはそれくらいに重い。意味は私たちにとって中核である。現象そのものを楽しむということは事実上むりだ。最初からそこにあるものではなく、あとから湧いて出た意味のほうに、いつでも私たちはかかりきりにならなければならない。

みたいなことが、京極夏彦『鵼の碑』に書かれている。今は半分くらい読んだ。あと半分残っている。だからこの先を読むとまた違ったことが書いてあるのかもしれないが。京極作品は分厚すぎて基本的に正月にしか読めないので、新刊が出てもしばらくは読めずにいたのだけれど、ここんとこ出張が連続するので、移動時間の間に読めるじゃないかと気づいて購入した。あっという間に京極夏彦の世界に入れる安定感。あいかわらずなのがうれしい。百鬼夜行シリーズ30周年記念と書いてある。パワプロといっしょなんだなあ。大谷翔平と同い年か。

30年前、私は16歳、『姑獲鳥の夏』を読んだのは高校の授業中であった。

私はその年、なぜか教室の一番うしろの席になることが多く、そして隣にはこれまたなぜか高確率でバスケ部のキヤという男が座ることが多かった。キヤはスラムダンクの河田弟のような体型のいかにもバスケットマンといった風貌で頭の回転が早く人気者で学祭ではステージでなぞのモンキーダンスを踊るなどの茶目っ気もあったが私との交流はさほどなかった。そのキヤは、自分の席が教室の最後尾になると決まって授業中に本を読む。それはマンガのことも多かったが字の本のこともあった。赤川次郎を読んでいると思えば芥川竜之介を読んでいることもあったように思う。あるいは五十音順に読んでいたのかもしれない。私はそれを見てなるほどいいものだなと思って、自分のさして興味のない授業、たとえば地理とか生物といった、社会人になってから役に立つから覚えておいたほうがいいよと世間の無責任な大人たちがよく圧をかけてくるタイプの授業のときに、教室のロッカーに持ち込んだマンガを取り出してきて読むことにした。キヤから借りたマンガが多かった。『スプリガン』『いいひと。』『H2』とかそのへんだ。私たちは本に没入していたが先生たちは気づいても何も言わなかった。というか気づかれても何も言われないような授業のときにだけ本を読んでいた。数学の関口という教師、無口で朴訥な仕事の鬼が、授業中に内職をしていた学生の頭頂部に黒板用コンパスを竹刀のようにしてゴツンとやって「まじめにやれ!」と一喝したとき私は思った。「まったくだ。関口の授業なんだからまじめにやれ」。そして私は地理や生物の名前の思い出せない教師の前であいかわらずマンガを読んでいた。高校生らしくずるく汚い青春であった。

姑獲鳥の夏は楽しかった。姑獲鳥の夏にも関口という名の男が出てくるのだが、私はこの関口をずっと数学教師の顔で再生していた。数学教師のほうは京極関口よりも姿勢がよかったがどちらも小柄で機嫌が悪そうで古き悪しき理系の「ボソボソ感」に満ちており相通ずるところがあるような気もした。そしてこれは京極関口にはない特徴だと思うが数学関口は板書の字がべらぼうにきれいだった。教え方はうまいかどうかはわからなかったが筋が通っており私の数学の成績はローカルで戦える程度には上がっていた。私は次第にその不人気な数学教師に好感を持つようになり、卒業のときにはほかの教師を差し置いて関口にだけ感謝を伝えに言った。私は高校を卒業した後も京極夏彦を卒業することはなかった。何年かおきに刊行される新作を欠かさず読み、そのたびに数学の関口のことをぼんやりと思い出している。

ところで京極作品には木場という名の刑事が出てくる。私はどうやらこの木場の顔を長いことキヤとオーバーラップさせていたようにも思う。しかし30年を経て木場の顔は少しずつ別の印象で上書きされ、キヤの顔を私は忘れてしまった。木場にはたくさんの意味が付与されていくがキヤについての情報は28年前で止まっているのだから仕方があるまい。京極関口の顔もおそらくもう、数学教師の関口とはだいぶ離れてしまっている。私はあの頃の人びとの顔をどうもよく思い出せない。ありのまま、あのときのまま記憶するのではなく、あとからあとから上塗りされる情報に気を取られてしまったばっかりに、「あったものそのもの」を私はうまく記憶できなくなっている。あるいは、記憶はしているのだけれど、取り出すことができなくなっている。

「スプリガンは―――」
描き方がかっこいい、とキヤは云った。
「ちょっとMADARAに似てるよな」
俺はMADARAのほうが好きかなァ、と云うとキヤは三厘に刈り揃えた頭をつるりと撫でてそうだなと応じた。