脆弱

寝苦しくて夜中に目が覚めるせいだろうか日中もなんとなくぼうっとしている。そういう日に限って朝から電話が鳴り止まない。ちかごろ、ほかの病院や大学の病理の現場を見て思うのだが、普通の病理医はこれほど電話を受けないようである。先ほどからジャンジャンかかってくる要件の中には、これは私ではなくて受付の方の業務だろうと思えるようなものがあるし、病理診断とはあまり関係のない案件の相談(例:看護師の教育、ネット回線の工事)とか、「そういえばこないだの症例ってあのあとどうなりました?」のようなメールでやれ案件も混ざっていて、つまりみんな私に対して遠慮がないのだろう。悪いことではない。おかげで目が覚める。電話のおかげで私は覚醒した状態で仕事をできている。みんなに起こされている。ありがたいことである。


中皮に対して炎症細胞が躍起になって攻撃する病態はありえるのだろうか。やけに泡立ちのよい胞体を示す腺腫は通常の腺腫とは切り分けて考えるべきかもしれない。膵臓でsquamoid cystと呼ばれているものは腹膜だとinclusion cystの中に含まれてしまっているということはなかろうか。女性にしかないはずの疾患を男性にみつけてしまった場合は疫学と診断学のどちらが間違っているのだろうか。学会のホームページの改修プロジェクトのこと。単位も講習会も取るだけ取って結局試験を受けに行かなかった分子専門病理医資格のこと。研究会の病理解説用に関連症例をどこまで提示するか。Researchmapの更新。電話が鳴る。取る。切る。診断がわからなかった免疫組織化学パネルの結果を見て教科書を調べていた先輩が、私の思いもつかなかった病名をあげたので二度見して、教科書の該当ページを覗き込むとかつての私が貼った付箋がペロペロになってそこに鎮座していた。ギャー思いもつかなかった負けた! SALL4陽性腫瘍をすべてenteroblastic differentiationと診断することに一抹の不安。生検でbronchiolar adenomaとadenocarcinomaの鑑別を完全に執り行うことは本当に可能なのだろうか。Borderline malignancyという言葉を使っていい臓器と使ってはいけない臓器があることをどう考えるか。Bowenoid AKと露光部Bowenとは本当に同じ病気なのだろうか。電話が鳴る。取る。切る。胃底腺型腺癌の表層にみられる腺窩上皮に異型があったらそれをすべて胃底腺粘膜型腺癌として報告すべきかという場面でまず背景粘膜の再生状態に目がいくのは当然のことなんです。虫垂の根部によく糞石が嵌頓しますがどうして端部には嵌頓しないんでしょうか、それは、端部のほうが奥だからなあ、あんまり学術的じゃないですね、ごめんねプラクティカルで。電話が鳴る。切る。取る。逆だ。かけなおす。電話中である。


医局でたまたま見かけた医者の横にどかっと座って昨日の症例の話をする。何気なくうーんと背中を反らせたらずいぶんといい感じでリクライニングするのでうらやましくなる。医局の椅子のほうが私のデスクにある椅子よりも性能がよいじゃないか。嫉妬。この病院に勤めて17年になるがいまだにコクヨの中くらいの椅子を使っている私は、もう少しオフィス用品に対して厳しく監査をする目をもったほうがいいのだろう。でもコクヨで困ることはない。コクヨは必要十分な相棒であった。病理診断をするにあたってアーロンチェアは必要ない、顕微鏡を見るときには背もたれから背中が離れて前のめりになっているし肘置きだって使わないのだ。アーロンチェアの質を自慢するタイプの病理医は基本的に顕微鏡をあまり見ていない。ネットにたまにいるだろう、気をつけたほうがいい。もっとも、ちかごろは、デジタルパソロジーシステムによって、顕微鏡像より美麗な画像をPCのモニタに投影できるようになったから、あと10年もすると病理医の椅子が次から次へと高性能のアーロンチェアやゲーミング椅子に置き換わっていく可能性はある。


「可能性はある」みたいな文章を書くのがいやになった。「矛盾しない」「否定できない」「了解可能である」といった言い回しは病理診断に頻出するがそこでぼかしたところで病理医としての仕事のクオリティは高まらない。迂遠になったぶんミスリーディングを誘うこともある。えてしてそういう微妙な所見を書くのは「若い病理医」……ではない。近頃の若い病理医たちは揃いも揃って病理所見の書き方が上手である。危ないのはベテランの病理医のほうだ。私たちは少しずつ置いていかれる世代となっている。まだまだ勉強することはいっぱいあるんだけど、勉強できる時間がじわじわと減っていて、脳の余力もじわじわと減っていて、いや、まだまだ、ここからもさらに進歩できる可能性はある。生涯教育を遂行できるタイプの病理医として矛盾しない。しかし勉強した先から忘れていくタイプの病理医である可能性も否定できない。さまざまな可能性がありうるが病理医のバリエーションとして了解可能である。