ずれたままおさまる

腰の付け根のところが痛い、という説明でいちおうわかってはもらえたのだが、冷静に考えると「腰の付け根」とはなんだ。むしろあらゆるものの付け根が腰なのではないかという気がする。大殿筋の浅層の起始部が腰背腱膜を引っ張っていてそこが痛いのだと思うから、正確には尻の筋肉の付け根(であるところの腰)が痛いというべきなのである。しかし日本語としてよりよく伝わるのはおそらく「腰の付け根」という一言のほうであり、たぶん「腰の付け根」と言って多くの人が思い描くイメージは私が今こうして痛がっている場所とそんなに差はなく、つまりニュアンスもわりと過不足なく伝わっていて、さらに言えばこの場合の「の」はおそらく「of」として用いられているのではなく「as」として用いられている。


なにかをどうやって言い表すか、についてはさまざまなバリエーションがありうる。それはたとえば物量を調査してエビデンスに仕立てれば暫定的に正解を仮固定できるというものではない。脳という複雑系が再帰的なネットワークの中で情報を処理していく過程で、主たる解そのものではなくむしろ副産物的にぺっと吐き出すものが感情の「地」になっており、表現とはその「地のテクスチャ」をどう言い表すかという話であるから、正解がどうとか統計学的有意差がどうとかいった話でははかれない。

たとえば病理診断の世界では「花筵状」という言葉が用いられる。ただしこの花筵状とされる模様は、本来の花筵(はなむしろ)とはわりと違ったものだ。個人的には公民館の子どもがごろごろできるスペースのマット(それもそこそこ汚れているやつ)に目をおもいきり近づけたときに見えてくる模様に一番似ていると思う。検索しているとけっこうおもしろい画像が見つかったので提示する。さいしょが「病理医が花筵状の線維化と呼んでいるもの」、つぎが「本来の花筵」だ。


参考1: 花筵状線維化

参考2: 倉敷の花筵


1と2は別に似ていないと思う。いや、まあ、似ていなくはないのだが、病理学的な花筵状線維化は家内制手工業で作った昔ながらの花筵を屋外で花見のときなどに敷いて毎年使ってぼろぼろになったものに似ているのであって、現代の機械製造された花筵とはニュアンスが違う。

病理学的な花筵状線維化とは、細長い線維が錯綜して増殖している状態だけを指すわけではなく、線維芽細胞、膠原線維、さらには炎症細胞という微妙に異なる成分が混在していること、さらにはこれらの成分のうち「有核細胞の密度が(普通の線維化と比べて)それなりに高いこと」が必要である。「混在と密度」を含んだ概念であり形態が似ているかどうかだけで言い表してはだめだ。

単に目が細かく模様が錯綜しているだけの模様は花筵状の線維化とは呼ばない。カーペットの上で遊ぶ幼児たちがこぼすお菓子のクズであるとか衣服の線維であるとか汚れのたぐいが絡みついているさまのほうが私にとっては花筵状線維化との類似性が高い。しかもそれはあくまで「似ている」というだけで「そのものずばり」ではない。

「そのものずばり」は細胞そのものだ。言い表せば必ずずれる。しかし、この話はおそらく、「腰の付け根が痛い」といっしょなのだ。言葉は微妙にずれていても、ブラックボックス内での加減乗除が加わった結果、同じような情景を多くの人の脳内に再現できる場合があって、そういった言葉はすでに病理学用語として私たちに頻用されている。「クロマチンの増加」は実際にクロマチンがaneuploidyの結果増えている場合と単にヘテロクロマチンの量が減って可視化されるユークロマチンの量が増えているだけのときと両方あるのだが、どちらにしてもなんか伝わる。「紡錘形細胞」はほんとうは細胞が紡錘形なのではなく核が紡錘形なだけのときはけっこうあるがだいたい必要な情報としては伝わる。乾酪壊死は現在の日本で売られている乾酪(チーズ)にはさほど似ていないがあれを乾酪以外にたとえてもおそらく今以上のニュアンスは出せないだろう。


形態学と戯れ続けると思考と統計学との折り合いが悪くなるような気がする。ほんとうはそれではだめだ。このような病理所見があるときに患者はある薬に対してこのような反応を示しやすい、のように、統計学的な処理を常にバックグラウンドに走らせた状態で細胞を見て言い表すことが病理診断の役割である。統計を用いて世の事象を切り分けていくことには時間がかかり、人体のあらゆる現象は今日もまた昨日までとは違う統計によって再解釈をされていて、それに対応してあらたな治療薬とかあらたなさじ加減が生まれるから、すなわち医学は一瞬では理想郷に到達できない宿痾を永劫背負っていて、私たちはいつも建築中の建物で暫定的に伽藍のお掃除などをする職業人だ。常に「最新の情報」に敏感でなければ医者をやれないというのは畢竟そういうことだ。しかし私は形態学を学ぶにあたってどうしても統計学ではない部分に時間をかけてしまいがちで、これはやはり医師としては欠陥というか弱点を抱えているのではないかと思う。

「たとえばこの細胞をより多くの人にニュアンスが伝わるように語るにはどうしたらいいのか」といったことを蒐集し観察して沈思する。循環器系の学会で微妙な箱ひげ図を前にproだcontだと激論がなされ、化学療法系の学会でKaplan-Meierの右端がクロスしたしないと殴り合いをしている傍らで、「免疫染色をする前に私の脳がこの細胞をanaplastic largeだとピンと来た理由はいったいなんなのか?」といったことに気を取られて、少しずつ患者からも医者からも後退りされている。剣先が触れ合わないところまですり足で下がったようですがそこだとまだ私の竹刀がぎりぎり届きます(重心を真ん中にたもったままで右足の親指の握力だけを少しゆるめて実質的な間合いを5 mmほど取り戻しながら)。