誘われられる

中学校からの友人がゴルフを教えてくれるという。とはいえ彼も学生時代からやっていたわけではないそうで、30代半ばあたりで仕事の付き合いもありゴルフを練習しはじめ、まだせいぜい10年くらいのゴルフ歴だという。スコアは100をちょっと切るくらい。べらぼうにうまいというわけではないようだが、スマホで魅せてもらったフォームが非常にきれいで、その場にいたほかの同級生たちが口々に、「彼は教え方がとてもうまいから教わるといい」と言ってすすめてくる。これはちょっとおもしろいことになりそうだと思った。

私は剣道をやめてから20年以上、なにひとつとしてスポーツを続けることなくここまでやってきた。一時期契約していたスポーツジムも最後は半年くらいただ会費を払い続けている状態であった。前に一度、ゴルフをはじめてみようと思って打ちっぱなしに行ったこともある。しかしそのときは何が楽しいのかわからず、2回か3回か行ったっきりやめてしまった。

剣道以外のスポーツにはまることはもうないだろうと思っていた。

しかし今回は「もしかすると……」と思うふしがある。ゴルフが楽しそうだからはじめるわけではない、というのがミソだ。

この年でゴルフをはじめても、当然、ものにならない。一生へたの横好きだ。金と時間の無駄。しかしそういう損得の計算を乗り越えてなお、今回の私は、「もしかすると……今度は続くかもしれない」と思っている。

それはきっと、今の私が、「友人になにかを教わる」ということにわくわくしているからだ。



そんなの、趣味をはじめるときにはよくあることじゃないかとみんなは言うかもしれない。しかし私にはそもそも「友人・知人のすすめによる決断」というのをした経験がない。たぶん一度もない。つまりこれは私にとってはじめてのことなのだ。

友人にすすめられて何かを決めたことがないからといって社会的に致命的なキズが生じるわけではないので、私のこのような挙動にたとえば「発達障害」のような名前はつかないのではないかと思う。自分でも自身を特にめずらしいタイプだとは考えてこなかった。でも、振り返って考えると、友人や知人だけでなく家族や先生といった周りの人たちの言うことをほとんど聞かずにここまでやってきたことは、私の本質的な「ずれ」ではないかという気がする。

これまでのありとあらゆる選択の局面で私は他人の言う事を聞かなかった。

そもそも私は自分が選択をしたとすら思っていない。

推進力が強すぎて舵があまりよく効かない船。私は必死で面舵、取舵と腕に力を入れるのだけれど、せいぜい1度とか2度といった微調整しかできず、船はまっすぐぶっ飛んでいくばかりだった。ならばタービンの火を落としてスクリューの回転速度を落とせばいいのだが、そういうことができないというのがおそらく私の器質でありおそらく瑕疵だったのである。


そして私はついに速度を落とし始めた。理由は簡単で加齢によりエンジンが弱ってきたからだ。航行速度の落ちた船ならば私の腕力でも舵取りができて、まわりを見渡す余裕もできるし航路を大きく変えることもできる。


中学校時代からの友人たちとたまに会うようになったのはここ10年のことだ。30代なかばくらいまで私は小中高大の友人知人とほぼ没交渉でひたすら仕事ばかりしていた。10年前から縁あってたまに友人たちと遊ぶようになったのだがそれもせいぜい年に1度くらいのことだった。私はそのころもまだ水を蹴立てて爆走していた。しかし今年、というかつい先日、はじめて私は、「あっ、今は誘われられる」と感じた。それは友人たちとのキャンプの帰り、風呂で長話をしていたときのことだった。

私はそこで「もっと楽しんでいいと思うよ」というセリフを、生まれてはじめて素直に聞くことができた。

それはゴルフである必要はなくなんでもよかった。

私はとうとう友人の勧めで新しい世界に舵を切っていくのだなと思った。

私はその日、冗談でもなんでもなく、三度、四度と、泣きながらメールを打った。

メールの相手はみな仕事相手であった。私はとうとう、選択しはじめた。それは私が歩みを止めることと似ていた。どうしても涙が止まらず、しかし、私は同時に、「友人になにかを教わることを選べた自分」に本当にわくわくしはじめたのだ。