ままならない体

われわれの体というのは非常に高機能で、どこに指先があるとか足のつま先があるとかが細かくわかるようになっていて、目の前にある爪楊枝をすかさず拾い上げることもできれば、小石を避けて歩くこともできる。まるで「絶対座標感」があるかのようだ。

しかし、そのような「自在に動く体」を、自分の思う通りのフォームで動かすことはじつは極めて難しい。ダンスでもボーリングでもゴルフでもなんでもいいのだが、だいたいこういうイメージで体が動いているはずだ…と思っていても、自分を動画撮影して見てみるとびっくりするくらいずれている。背筋の伸び方とか顔の位置とか、細かな体軸とかがぜんぜん思っていたのと違う。

ものを拾う、つかむ、よける、といった日常に必要な動きには何の苦労も要らない。しかしスポーツや美的観点などでボディコントロールをすることも自在かというとそんなことはぜんぜんないのである。

われわれの体は、思うように結果にたどり着けるようでも、実際にはぜんぜん意図的にはコントロールできていない。それはたとえばある動きの際に反射的に・無意識に発動するカウンターアクション(対立する筋肉や連動する筋肉の動き)のせいであったり、小脳あたりの微調整のせいであったりする。

そういった無意識のずれを経験的に・直感的に・理論的に補正することは、多くのスポーツで「フォーム矯正」として行われている。私は剣道で何年もその類いのコントロールを行ってきたし、たぶん部活やサークルなどでちょっとでも運動したことがある人なら必ず経験しているだろう。大人になってから新たに趣味でテニスや山登りをはじめた人などもきっと思い当たりがあることだろうと思う。

スマホで自分の動いている姿を撮影するのはとても役に立つ。昔は鏡を見るくらいしかなかったが、動画をその場で見直せるというのは大きなアドバンテージだ。しかしいくら動画を見ても結局自分の体はなかなか自分の思う通りには動いてくれない。

そのことをわかっている指導者は、独特の言い回しでボディコントロールの繊細なニュアンスを伝達しようと試みる。

たとえば剣道では、「左足のカカトの下には薄紙1枚が挟まるくらいのすきまをあけるべし」という言葉がある。これは、そういう心持ちで臨むと自分の体がいいフォームになりやすいという意味であって、実際には強い剣士のカカトはもう少し上がっている。つまりある意味「うそ」だし「おおげさ」なのだ。しかし剣士たちはわりと本気で「薄紙1枚分だけカカトを上げている」と認識しているし、それくらいでうまく体がコントロールできる。

臍下丹田に気を込めるというのもたぶんそういう類いの指導法の一つなのである。実際に気が集まるかどうかはあまり関係がないのだが、へその下に意識を向けるようにすると肩や背中に入った無駄な力が抜けやすかったりする。



で、同じようなことは、たぶん「話し方」などにおいても言えるのだろう。俳優や声優などの技術もたぶん「自在」の意味が私たちとは違うのだろうなと感じることがある。そしておそらくは「考え方」にだって、自らの無意識のずれやゆがみをコントロールする技術というものがあるんだろうな。