とことんてんてこまい

とことん忙しくて、てんてこまいしている。ここでもちろん「とことんてんてこまい」というフレーズについて考えはじめることになる。

とことん、という言葉はリズミカルだ。てんてこまい、という言葉も踊るようである。そしてこれらはいずれも由来がぱっとはわからない。てんてこまい、のほうはなんとなく「舞い」のイメージがあるが、とことんの方はほんとうによくわからない。軽くググってみると、日本舞踊の足の音だと書いてあるページが出てくるけれども、それが「最後までしっかりやり切る」みたいなニュアンスを帯びている理由はナゾである。まあもう少し調べたらいいのかもしれないけれどそういうのは得意な人にまかせる。

とことんてんてこまい、とつなげると、意味としては、徹頭徹尾おおわらわ、みたいな感じになる。しかし口に出してみるともはや擬音だ。意味から離れていく感覚がある。Eテレ幼児番組のような、語感でクフフと楽しむ感じの音楽。

虫時雨とことんてんてこまいメール

のように季語などつけてみたりする。音とたわむれているうちに、とことん忙しくててんてこまいだった自分が後景に下がっていく実感がある。


家族と飲み、私が他人といるときに言葉がどうも出過ぎなのではないかという案件をしばらく語り合っていたらどうも深酒をしてしまった。夜中ほとんど起きることもなく、朝もあまり寝た気がしなかったのだが、家人は昨晩、天井をこつこつと叩いたり歩いたりするカラスかなにかの音がうるさくて夜に目が覚めたのだという。

宵っ張りの烏とことんてんてこまい

だなと思ってそのように伝えたがまったく意味が通じなかった。なるほど私の頭の中でうるさくなり続けている言葉はこうして意味から外れて音のほうで遊び始めるのだな。ダジャレばかりつぶやくというのもつまりはそういうことなのだろう。なんだかひとりでずいぶんと深いところまで納得してしまった。そして私は今の短い記事を書きながらなんだか泣けてくるのである。深く深く暗く儚い部分にある自分の本質のようなものを理解してしまったことの「あがり」感に泣けてくるのであった。安い涙である。