「精神と肉体は不可分である」というしゃべりかたをした瞬間から精神と肉体をなんとなく別のものとして考える前提にどっぷりはまってしまっている。「心身」と書いたらもうそこには二種類の見方が生じているわけだ。不可分ならば言葉もいっしょになるはず。別の言葉をあてた瞬間から別様のものになってしまう。
パフェをパフェとしか言わないということ。ヨーグルト・コーンフレーク・いちご・バニラアイス(MOU)・いちごアイス(牧場しぼり)・冷凍ベリーミックスをどれだけマリアージュさせても、このように材料表示してしまった時点でそれはあくまでヨーグルト・コーンフレーク・いちご・バニラアイス(MOU)・いちごアイス(牧場しぼり)・冷凍ベリーミックスを混ぜたものであって、パフェという渾然一体のなにものかではない。
名付けてはいけない。「それを愛と名付けるみたいなことを平気でいうSNSのどぐされアカウント」を滅ぼそう。愛を語るために愛を分離してしまう罪。ちなみに今わたしは「それを愛と名付けるみたいなことを平気でいうSNSのどぐされアカウント」を名付けて世界から分離した。おかげで彼らに目が向いてしまう。私も名付けの罪を新たにひとつ背負う。
名付けてはいけない。私たちが行うべきは名前を付けることではなくすでにある名前を寿ぐことではないか。
友人の犬(略して人犬)が何を思ったかXにおすすめの文庫を載せていたのでそれを軽率に購入して順番に読んでいる。『季語の誕生』(宮坂静生、岩波新書)は非常によくて、特に冒頭の「浜頓別の俳人」の話が全編をつらぬくカウンターアクションになっていたところがとりわけよかった。「歳時記に載っている季語は浜頓別の季節とは合わない」という悩みに宮坂が撃ち抜かれてしまうのだ。新書の冒頭1行目から猛烈な勢いで奥襟を抱き寄せられ激しく大外刈りで畳に叩きつけられるような読書。しかも畳に転がってからはじわじわと花・雪・月について寝技のようにしめつけてくる。2時間くらいで読み終わるかと思ったのだがたっぷり4時間かかった。途中何度も考え込んだからな。和歌とは名付けである。季語とは分類なのだ。
次に『寝ながら学べる構造主義』(内田樹、文春文庫)を読み始めた。真ん中くらいのところで、おお、と立ち止まるフレーズに出会う。
”フーコーが指摘したのは、あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや人間のあり方についての情報を取りまとめて「ストック」しようという欲望によって駆動されている限り、必ず「権力」的に機能するということです。”
そうか、そうなのか。ぐうの音も出ない。情報を取りまとめてストックするということは知的欲であるかと思っていたが、あれはつまり権力欲なのだ。めちゃくちゃに腑に落ちてしまった。ここで権力という言葉を取り出してくるのはうまいしずるいしいやだなあ。私のやっている病理診断学、中でも「分類」という仕事にはストックする側面があり、ストックを充実させていくことで私は確かにほかの医療者の前で権力的にふるまっている。そのことに気付かされて全身がきゅんと縮こまる。
名付け。仕分け。腑分け。申し分のない申し訳。私にこれらの行為をもっと前向きに、誇りをもって、堂々と為させてほしいがなかなかままならない。
”人間は名前によって、連続体としてある世界に切れ目を入れ対象を区切り、相互に分離することを通じて事物を生成させ、それぞれの名前を組織化することによって事象を了解する。このように「名づける」ことによって物事が生み出されるとすれば、世界はいわば名前の網目組織として現れることになるだろう。したがって、ある事物についての名前を獲ることは、その存在についての認識の獲得それ自体を意味するのであった。こうして諸々の物が名前を与えられることによって、たとえばそれが食物か毒物か薬物かを区分けされたとき、そこに成立する名前の体系は、人間とその物とのあいだに数限りなく繰り返されたであろう試験(試練)を含む交渉を背負っているのであり、それは「生きられる」空間が想像されたということであった。” 『「名づけ」の精神史』(市村弘正、平凡社ライブラリー)