でかるとでからないとにかかわらず

有無を言わさぬ眠さに押しつぶされているときに、人格とか自由意志のことを考える。私が私である意味、プライド、特異性、そういったものが、「眠さ」によって暴力的になぎ倒されていくのがよくわかる。悩んで考え込むためには十分な睡眠が必要だ。存在の理由を問うとか人間の基本的な尊厳を語るといった七面倒臭いことは、良く寝て頭も顔もつやつやな状態じゃないと、前に進まない。

「結局いまこの瞬間になんとかさ~、さっきまでの自分と同じであり続けたいっていう惰性の代謝でさ~、テンポラリーに人間続けちゃってるだけじゃん? そんな、自分が自分であるためにどうするとか、偉そうなこと、一切今は考えないじゃん? それでも結局、生き続けているんじゃん?」

語尾も普段なら絶対つかわない中居正広になってしまう。生きている意味なんて知ったことか今私は眠い。筋の通ったことなどひとつも考え付かない。自分で言っていて自分の言葉がよくわからなくなる。そんな中でも呼吸は続き脈は拍動する。活かされているとか生を許されているといった美辞麗句が後退りする。生きていることの慣性によってそのまま生きている、ただそれだけなんだということが、「眠い」というお立ち台の上で燦然と輝いて、私はいやでも気付く。ああーかつて人間が、「我思う、ゆえに我あり」とか言いはじめたのは、あれ、よく寝てたからなんだろう。いったん眠気に負けてみろ。我なんにも思わないけど体は重いし仕事まだわりとあり。ヴァレリーは「私はときどき考える、ゆえに私はときどき存在する」と言った。ヤンデルは「私は眠くて考えられないけど仕事はいつも存在する」と言うだろう。

眠さは記号を奪う。言葉を越えて人は思考できないというが、そんなことはない。眠さによって記号の対応関係がぐっちゃぐちゃに壊れてもなお人間はふわふわとものを考え続ける。ソシュールもバルトもラカンもデリダもなんだかんだでよく眠っていたのではないか。眠気に負けてみろ、シニフィアンもシニフィエもとろけた場所で、それでもなお人間は思考をやめない。論理が破綻した状態のままでも脳はぱくぱくと口を喘がせどくどくと声に血を通わせー¥^^^^^^^^^^^^^^^ー^^^^^^^^^^^^^^ー¥^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーなんか右手のあたりで押ささった(北海道弁)。


顕微鏡を見て細胞のようすを言葉にして診断を書く。そういった一連の作業が眠くてだるくてまったく進まないときに、私はこうしてブログを書く。診断のときには、自分の考えていることを隙や漏れのなるべくない状態で連綿と書き連ねていくわけだが、そういった脳がクリアなときにしか行えないタスクは四六時中取り組めるものではない。惰性と反射で診断を書いてはいけないが、私はこうして今眠い、だから惰性と反射以外で脳も目も指もカーソルも動かなくなっている。そういうときにはブログを書く。我思わなくてもブログあり。寝ている間に妖精みたいなやつが出てきて靴屋さんのお仕事を手伝ってくれるあれ、あれ、あれこそが人間の生きる姿ではないかとはたと膝を打つ。コビト・出る・住む。膝を打つ衝撃で少しだけ目が覚める。おやすみ。