時の先に棲む相方

二泊分の着替えを入れてもトートバッグひとつで済んでしまうことを「出張上手」と呼んで胸を張っている。しかし、化粧水とか折りたたみ傘とか本当は必要なものを無視しているから荷物が少ないだけで、何か足りないものがあっても現地のコンビニで買えばいいやとあきらめたりやけになったりしているのであって、本当は出張上手でもなんでもなくてただのずぼらなのだ。革靴にキズが目立っている。いい靴を買っていい歩き方をすればいつまでもピカピカなはずだがいつも靴を買い替えて出張を一度すると履き古したような靴になってしまう。そういった、物に対する気配りのようなものが全般的に足りていない。今回の出張では、稼働時間も長くしゃべる内容も多彩なので、ジャケットにパンツのスタイルのほうがマッチしたかもしれないのに、必要以上にフォーマルなスーツを選んだのも「これだけかっちりしておけば少なくとも誰かから無礼だと言われることはない」という消極的な理由に過ぎない。

生活・身のこなし・ファッション・おしゃれという部門が全般的に苦手である。年齢や社会的関係性に照らすと不相応に無頓着で、いろいろと欠落している。これによって失った信用もあったのではないかと思う。こだわりのようなものがないわけではない。しかしその自分のこだわり、あとで振り返ると何を意固地になっていたのか、なぜ人びとの背中を見て真似しようと思わなかったのかと不思議に思うことばかりだ。昔かけていたメガネの形、昔着ていたパーカーの柄、すべてが当時の時代に即してもどことなくずれていて、私はずっとこうだったのだということをしみじみと感じる。

今週は毎日眠りが浅く、今日はとうとういつもより一時間以上も寝坊してしまった。のそのそ支度をして朝ご飯もゆっくり目に食べて出勤すると、始業時間の一時間半前。もそもそメールの返事をしてすっかりやることがなくなって、始業まであと10分というタイミングでブログを書いている。一時間寝坊しても業務に支障がないほど早朝出勤している理由はそもそもなんだったのか。がんばって思い返そうとするが心当たりがとんとない。これもいらないこだわりだったのではないかという気持ちが拭えない。早出・居残り・自己研鑽。

生活のあれこれをさらすとストーカーたちが私の居場所を特定して追いかけてくるのでSNSで居場所や行動について書くことは減った。「いいじゃない、普通の人はSNSに自分のことなんかあれこれ書かないよ。むしろなんでも書いていた今までのほうがおかしかったんだよ」という意見はよくわかるし、まあそうなんだよなと思って、最近はずっとSNSを減らしたまま過ごしている。特に支障はない。ただ今日、このブログを書いていて、ふと思ったのは、「私がこうして自分のやっていることをどこにも書き残さないようにすると、数年後に今のことを振り返るのが難しくなり、結果、あのころの私が実はこれくらいずれていたということを認識する機会も減るんだろうな」ということだ。さほど大切ではない決め事、自分ルール、そういったもののせいで道を外れ、外れたことを指摘されて困惑し、を繰り返している私の人生は、「だいぶ丸くなったよ」と言いながら(自称)、おそらく相変わらずやらなければいけないことをほっぽりだして誰もやろうとしないことをちまちまやっているわけで別に本質的な部分はさほど変わっていない。今日の様子を記録しておいて数年後の私に「あの頃もやっぱりずれていたんだ」と肩を落とさせ修正をかけさせ人の世で恥ずかしくないように矯めさせるためのツールが私にとってはTwitterだった。それなのに私はうっかり、12年以上続けていたアカウントをばっさり消去してしまった。それは本当に残念なことだったし私はあのアカウントを失ったことで昔の自分のズレやオイタをうまく認識できなくなり、毎日、あたかも「普通の人間ですよ」「平均的な反応をしますよ」という顔をしてのらりくらりと生きている。たぶんぜんぶ見透かされているのに私はうまく逃げ隠れることができているような顔をしてぬらりひょらりと生きている。だからこうしてブログを書くのだ。読み返すことはめったにないけれど、私は今日も、自分があのときもちょっとずつずれていたんだなということを認識するために何かを書く。そして、「いつか未来の自分がつっこんでくれるから、今多少ずれていてもそれは未来の自分が気づいてくれることだから」と、どこか安心したりしているのである。