限定的なものいい

学会発表の共同演者数は20名までなのに、21名になってしまった。ケースシリーズだから症例提示にかかわった人みんな入れたかったんだけど、そういうわけにもいかない。まいったな。話を聞いてくれそうな旧知の医師にはずれてもらうようにお願いするしかない。一度演者に入ってくれと言っておいて「やっぱり上限超えちゃったから抜けてね」とはどうにも情けない。これまでの関係性があるからおそらく私が失礼なおねがいをしても聞いてくれるだろうけれど。

いい人ほどババを引く構造を作り出してしまっている。申し訳ない。なにについても言えることだが。


フライトが遅れに遅れて駐機場についたのが21時45分。タクシー以外で街中に移動できる唯一の手段であるバスの発車時刻が21時45分。いくらなんでも飛行機が遅れたんだから待っていてくれるだろうと思ったけれどなんだかいやな予感がして、飛行機を降りてから競歩でさっさかゲートを越えたらバスの運転手が心配そうにこっちを見ている。あっよかった、やっぱり待っていてくれるんだと思ったが、私とあと2,3人のお客さんを乗せたらバスは容赦なく出発してしまった。えっ、だって、私たちは荷物を預けていないからいいけど、あとのお客さんはどうするの? 私はなんだかほかの客を出し抜いたような気持ちになってしばらく落ち着かなかった。まあ、臨時のバスがもう一台くらい出るのかもしれないし、先に乗っていたお客さんをこれ以上待たせるわけにもいかないのだろう、でも、これ、私のように、たまたま飛行機の前に乗るクセがあり、たまたま荷物が身軽でいいくたびれた男性出張者が、たまたま早足でせかせか生きるのが好きだったというだけで、たまたまバスに乗れて日が変わる前にホテルに着けたということになるけれど、もっとじっくり人生を味わい気味に暮らしている立派な人たちとか、あるいは家族や周りの人が降りるのを手伝っている気のいい人とかがバスに乗れなかったことを申し訳なく思う。なにについても言えることだが。


業績はすごいのにいまいち業界で人気がない医者といっしょに仕事をする機会が先日あった。15分くらいでピンと来た。自分のことしか考えていないんだなということが言葉の端々、というか、目の配り方みたいなものからびんびんに伝わってきた。講演時間は守らないしほかの人の発表は聞かないし周りをもり立てるような発言をしようという発想がそもそもない。それだけ自分に注力していればそりゃあ多少はいい仕事ができるだろうな、という強めの「なあんだ」におそわれる。意図的に視野を絞る感じと、馬でいうところのシャドーロール(馬の司会を限定して前だけ向かせるためのぼんぼりみたいなやつ)を自分に装着しているようなふるまい、「自分の仕事に責任を取れるのは自分だけなのだからほかの人物コトにかかずらっているヒマはないんですよ私何か間違っていますか感」みたいなもの。そういう厚顔なふるまいを今の私くらいの立場の人間が真っ向からきっちり否定することで、この先この人に迷惑をかけられる人の被害を未然に防ぐことができるだろうか、としばし考えた。結論としてはまあ無理だろう。申し訳ない。なにについても言えることだが。


心の中で謝ってばかりいるが実際にそんなこと言われても困る人のほうが多いだろうから直接謝る機会は思ったよりずっと少ない。押し付けの謝罪で気持ちよくなるのは謝ったほうばかりであり、謝られた方はどぎまぎしたりフォローの必要性に迫られたりと、とにかく、「謝られるほどいやな目にあったのに謝罪そのものでまたいやな目にあう」みたいなことが世の中にはたまに発生すると思う。「贈与」という言葉をブログで書くタイプの人全般に言えることで、そういう人たちは自己の快感を惹起するために「利他思考」でいようとする変質者だ。そうそう「利他」もやばいと思う。これらのキーワードをどれくらい日頃から自分のために使っているか、それでいい思いをしているか、みたいな推し量り方はわりと有効である。やるせない。なにについても言えることだが。