人を信じてないから言い訳がましくなるのだ

窓を開けて寝ていたら夜中に雨が降ったらしい。さほど風はなかったようで室内に雨が吹き込んでくることはなかったが、和室の畳がすこししっとりとしており夜半に湿度が高くなっていたようである。体を起こして畳を少しさわり、近くに落ちている髪の毛を拾って立ち上がり、洗面所に向かって軽くうがいをしたあとに冷蔵庫を開けてお茶を飲む。寝ている間に口の中にたまった細菌をそのまま飲まないほうがいい、みたいな話をだいぶ前に聞いて、なるほどありそうなことだなと思って寝起きの習慣にしているのだけれど、菌ってこんなうがい数回くらいで動くものでもないと思う。実質的な意味はほとんどないだろう。どちらかというと口の中のゆがんだ空気を入れ替えるような感覚。そう、これは感覚的なものでしかなくしきたりとか迷信に近い。物性とか化学とかの理屈でなにか意味のあることではない。そんなことはわかっている。理屈ではないところが習慣化していると妙に言い訳がましくなる。私は比較的言い訳がましくなる。


ずいぶんと長くかかった原稿をようやくまとめ終えた。編集者には「こんなに時間がかかったのははじめてかもしれませんね」と言われる。確かにそうだ。1か月くらいかと思ったが実際には7週間。ほぼ2か月かけてたった13000字である。しかしそれだけ思慮深くまとめあげたということだ……ほら、また言い訳をしている。どうも細菌じゃなかった最近言い訳が多い。家族にもたまに指摘される。なぜだろう、どうして今更、おそらく私は世間からのずれを気にするようになってきているのであろう。「しかたなくずれてしまう」ということ、「ずれを直す気はある」ということを、前よりも口に出すようになった。口から出すようになってきた。口の中にあったもの。夜の間にねばついたもの。


Spotifyで畑亜貴・サンキュータツオ両氏による「感情言語化研究所」を聞く。畑亜貴さんは先日の台湾旅行の話を持ちかける。朝のビュッフェで、フロアスタッフがおかわりのパンを持って自分のテーブルにやってくると、「別にもうパンはいらないのに、ついパンを受け取ってしまう」という話をする。あいかわらず【人の期待に応えちゃう病】が発動するのだと言って苦笑する。

その流れでタツオさんが言う。「はたさんはそこ、難しいところがあって、お人好しで人間不信で頑固っていうね」。お人好しで人間不信で頑固! すごい! 語感だけだとなぜこの3つが同居しうるのか不思議でしかない。お人好しなら人を信じそうなものだろう。でも人間不信。お人好しなら人に流されそうだろう。でも頑固。いったいどういうことなのか。

畑亜貴さんは「他人が自分と違う考え方をしている可能性を信じていない」とタツオさんは指摘する。目の前にいるこの人(例:フロアスタッフ)が自分だったら、今ここにいる私に向けてパンを渡したいはずだ、だからその期待につい応えてしまう……という話を、「つまりそれは相手が自分とは異なる考えを持っている可能性を信じていない、人間不信だってことだ。相手はパンなんて別に渡したくないかもしれない。バイトで仕方なくフロアを歩き回っているだけでいちいちパンを受け取られたらめんどくせぇと感じているかもしれない」というのだ。私はこれを聞いてうなってしまった。「世の中の人間がみな自分と同じような考え方をするだろうと無意識に前提してしまうこと」は人間不信なのだ! 人を信じるというのは自分の考えと異なる正解を許容するということ。人間の多様さを信じていないからこそ、自分に接するように人にやさしくしてしまう、それがつまりはお人好しということなのだ。びっくりした。

しかもそれを指摘されても「そんなことないんじゃないか、だってパンを受け取ってもらって悪い気はしないはずでしょう」と意固地になるというのがつまり頑固ということなのだ。お人好しというのは人間不信と頑固に支えられている。これまで考えたこともなかった。そして私は我が身を振り返った。言い訳がましいというのはつまり自分の中に流れている理屈を開示すれば相手は私をまちがいなく理解するはずだという「人間不信」に基づく行動ではないか。私は徹頭徹尾人間を信じていないよなあ、と腑に落ちる。ねばついた細菌が腑に落ちて腸活が滞る。