宇宙開拓史を1/3くらいカットしながら放送した例の特番

知性というものを数値とかステータスとかポイント的に考えると、それはあたかも大富豪と平民の差みたいなもので、たくさん持っている人間ほどそれを元手にさらに荒稼ぎできるという絶対的な性質があるために、いつまでもその差は埋まらない。頭が良くなりたいと思ったら頭が良い状態になってください。かしこくなるためにはかしこい必要があります。ひでぇ話じゃないか。

となればせめてこのブログに「知性というのはそうやって人と比べるものではないです」みたいな言葉を書きつけて、一瞬くらい自他を安心させられるかというと、やっぱりそんなこともない。残酷なことに知性というのは実際にステータス感をまとっている。「受験の点数で人間は測れない」という言葉がほんとうに世のみんなに納得されていたら逆にこんなに言及されないだろう。この世は持たざるものに厳しく、点数を出せない人に冷たい。世の中は、少なくともこうしてインターネットを介して日本語を読み書きする私たちの周りに展開する程度の世の中は、知性をポイント制にして順位を競うことを日常のデフォルトにすえている。

知性というものはスカラーというよりベクトルっぽい概念であって、絶対値だけでなくてそれが向いている方向を内包した概念だ。だから他人と自分の賢さはそう簡単には比べられない……とはいうが、たまたま同じ方向を向いている矢印の間ではやっぱりその長さを比べられる。「知性ってのはベクトルだから数字にこだわらなくていいですよ」とはならない。

漢字を知らなければ本が読めないし音符を知らなければピアノは弾けないし頭が良くなければ生きていけない。「頭がいいというのにもいろんなパターンがあるんで、ほら、受験だけが頭の良さをはかる手段ではないですから」。ほかの手段ではかってるだけのことだろ。「そんなに頭良くなくてもいいんですよ、東大を出なくたってほら、立派にこうして生きていけるんです」の「立派に」というのがどういうものかと考えてみる。職業に就いて、お金を稼いで、そこそこ自分の裁量で買い物をできるという条件が「立派に」揃っているということだ。その「お金を稼いで」のところにこれまたスカラー的な評価がまとわりついている。「買い物」のところにもだ。年収何億もいらないけれどひとまず月に手取りで◯万あればどこどこに住んで何を食ってときどき旅行にも行けるじゃない。そのためには超絶頭が良くなくてもいいけど最低限これくらいの常識は知っていて、損をしない程度に暮らす知恵はいるよね。ステータスの上限は見ないけど下限というか予選通過順位は気にしてますよ。いっしょだ。いっしょである。けっきょく知性はステータス扱いされている。

「いい大学を出ていなくても、いわゆる受験脳は持っていなくても、すごく頭のいいことを言う人がいますよね」みたいなフォローをちらちら目にするがそれもどうかと思う。それはつまり「評価方法を変えればこちらの人のほうがステータスが高くなります」と言っているだけだからだ。芸術家の◯◯さんは小学校までしか出ていませんがその人生訓は◯◯万部を超えるベストセラーとなり多くの人に受け入れられています。在野の賢人ですよね。誰目線で何を評価しているのか。

頭の良し悪しという言葉の呪いは強力だ。私たちはバカなままでは暮らしていく資格がない。頭の良さというのは「負け額の2倍をベットし続ければいつかは勝てる、金持ち勝つの法則」のように、賢い人ほどその知性を使ってより大きな賢さを手に入れられるという身も蓋もない強者の原理によって担保されている。私たちは賢くなければいけないし、賢くないならどうやってもそれ以上賢くなれないとキッパリ言われてしまっている。





へんな宿に泊まってしまった記憶に限っていつまでも覚えている。事前に予定をしっかり立てて、移動、観光、食事、寝具とこだわった旅程は、他人の旅の思い出とまぎれてしまってどれが自分の思い出だったのかわからなくなってしまったりするが、今を去ること10年近く前、忙しく過ごしていたある日、「2日後なら家族の予定が合うようだ」と気づいてそこから大急ぎで楽天トラベルで宿泊地を探し、かろうじて見つけた内陸の格安温泉宿を予約して、これで今年の夏休みも形式上は休んだことになるぞと胸をなでおろしたのもつかの間、行ってみるとやっぱり建物はボロボロで、大浴場の湯加減こそよかったけれど壁も天井もヒビと虫ばかり、メシもふつうでなんならちょっと変な食材も混じっていて、家人もちょっとあれはイマイチだったねと帰りの車で首を傾げるような、そんな残念な旅の思い出が、ふしぎなくらい脳裏に焼き付いていて、おそらく一生忘れることはないだろう。写真を撮るでもなくお土産を買うでもない失敗談のことをふと父母に話すと、私たちのころもあったわよね一度、そうそうあればひどい宿だったねと、まだ私が小さくて覚えていない旅のことを少し悔しそうに、でもどこか楽しそうに思い出すのだ。なるほどこれは血筋というものかと最初は思ったが、いやこれは血筋というかそもそも人間というのがそういうものなのではないかと思う。

これは「氏名」と同じ発音の「知性」の話ではなく、知というものの性質について、すなわち「地名」と同じ発音の「知性」についての話だ。私たちの知の性質というのは、なかなかままならない。そんなもの覚えていたところで決していつかなにかの役に立つことはないだろう、という記憶がなぜか蓄積されている。よなかんばって、どんばんは。ヒャド、ヒャダルコ、ヒャダ……いてて、舌をカンダタ。♪な~にを 小癪な 木っ端役人~。これらが仮に走馬灯で出てきたとしてもそれが私の今際の際を救う可能性はゼロである。ステータス的な意味ではいっさい賢さに寄与しない脳のデブリ、これこそは、地名と同じ発音で高らかに宣言されるべき知性ではないか。知というのはステータスではなくて頑固な油汚れみたいなもの。知というのは持てば持つだけ増えるものとかではなく故意性ゼロでうっかり見えてしまうパンチラのようなもの。3倍録画を繰り返したビデオテープでノイズまみれに保存した「『大長編ドラえもん のび太の恐竜』の公開直前テレビ朝日特番」に出てきた、素人に毛が生えた程度の出演者たちのセリフ「いい男~~~!!」を今でも再現することができる私の脳に知の性質のようなものを垣間見る。役には立ちません。それはただそうやってあるだけのものです。ブログ1本くらいなら書けるけどね。