病理診断の報告書を書くというのはそこにいる人の名前を当てる作業とちょっとだけ似ている。
今あなたの目の前に交差点があり、横断歩道の向こう側で信号を待っている人がいます。よく見てください。それはだれですか? 着ているもの、体の大きさ、立っている姿勢、首の角度みたいなものを総合して、「ああそれはヒロセスズさんです」と即答する。理屈ではない。パッと見てガッと思いつくことに理屈はない。目が大きいからですとか髪が長いからですという断片的なヒントを積み上げてヒロセスズだと考えているわけではない。ヒロセスズという「診断」はトータル・総体として、さまざまな理屈を巻き込みながら猛然と脳内に飛び込んでくる。
細胞もいっしょだ。これは肺腺癌だということが飛び込んでくる。
それがヒロセスズであることは、たいていは秒でわかる。ただ、場合によってはちょっと時間がかかる。しかしそれは決して「ヒロセスズである理屈を述べるのに時間がかかるから」ではない。もうちょっとぼんやりとした時間の経ち方をしている。
あーあれ誰だっけ……その……ハマベ……いや違うそのあれ……そうだヒロセスズ! となっている途中の「……」のところ。ここはすごくぼんやりしている。あなたにも経験があるだろう。何かを思い出すとか何かを思いつくまでの間の脳は、ハードディスクのようにカリカリ音を立てるわけでも放熱するわけでもないが、しかしなんというか、ごちゃごちゃもやもやと動いているような感覚がある。そしてそれは言葉で言い表すことがとても難しい。
私たちは日頃、それがヒロセスズであると判断するに足る理屈をいちいち言語化していない。言葉になっていない思考によって生じる「……」は、あとから振り返っても何を考えていたのか再現できない。したがって実際に私たちが「……」のところでどう判断をぶん回していたのかはよくわからない。
細胞もいっしょだ。この異型上皮は悪性ではなくて良性……うーん……良性……? いや、やっぱり悪性! と判断するときの「……」のところで、おのおのの病理医が何を考えているのかはとてもわかりにくい。
ヒロセスズの診断と腺癌の診断は何が違うか。
ヒロセスズはしゃべる。「ブブー私は綾瀬はるかではありません。ヒロセスズです。まあ綾瀬千早なこともあります笑」。そんなしゃべりかたはしないと思うがあくまで例え話だ。大事なことは、ヒロセスズは誤認されても自ら訂正してくれるということだ。
いっぽう、腺癌はしゃべらない。「ブブー私は腺癌ではなくたんなる良性の上皮です。治療はいりません。治療すると訴えられます」。こうは言わない。病理診断は「判断が間違っていたときに本人(?)が直してくれない」。
ヒロセスズを違う人の名前で呼べばそれはそれで社会的なダメージがあるとは思うが、まあ、それはなんとかなる。一方、病理診断を間違うとそのままたくさんの不適切な診療プロセスが進んでいく。ここが違う。
ヒロセスズが自ら語るようには細胞は語ってくれない。その怖さをおぎなうために、私たちは病理診断において、人を当てるのとは少し違う思考システムをむりやり外挿する。「所見を積み上げる」。核が大きい、クロマチンの量が多い、核膜が不均質である。核と細胞質の比が大きい、細胞同士の結合性が弱い……。これらを羅列して理屈でつなぐことで、「だから腺癌です」というように病理診断報告書を書く。
ぶっちゃけ、これは、わりと欺瞞だ。
私たちが横断歩道の向こうに立っているヒロセスズをヒロセスズと認識するのに理屈を使っていないのと同様に、本当は、細胞をこうだと判断するのに理屈をいちいち積み上げるようなことはしていない。でも理屈で診断したんだぞという話を仕立てる。
脳はそんな思考過程をたどらない。しかし、迷いながら病理診断をする過程の、「……」の部分がブラックボックスのままでは同僚や仕事相手とコミュニケーションがとれないし、合っているか間違っているかの保証が何もなくなってしまう。だから「……」の部分を具体的に穴埋めする。それは、未来形で診断したものを過去完了形で書き直す作業だ。「ああ、なるほどね、だからそれを腺癌と判断したんだね」とみんなに思ってほしい。「なるほど」の部分をいかに本当っぽく組み上げるか。本当は直観で診断しているものをそうじゃないと言い張るだけの胆力がないと病理診断は書けない。
細胞の性状を診断するにあたって、所見をだらだら書くのは「うそつき」であり、「言い訳がましい」。しかしそれを程よく引き受けることで、「方便」が機能し、「指差し確認のように慎重な病理診断」が達成される。
ところで、病理診断というのは名前を書いてそれで終わりではない。それは私たちがヒロセスズを認識したあとにそれで思考を止めないのと似ている。
私たちは横断歩道の向こうにいるヒロセスズを認識したら次にどうするだろうか。ほとんど無意識に、「そのヒロセスズが何をしているか」を目で追うだろう。友達としゃべってる。スマホ見てる。歩き出した。向こうに渡っていった。どっかお店入った。挙動を見てしまうだろう。
細胞もいっしょだ。その細胞はひとところに固まっているか? それとも散らばって好き勝手に動いているか? 何か栄養を確保するための手段を周りに持っているか? 本来あるべきものを壊しているか? 挙動を見るのだ。これは「見てもいい」とかではなくて「見るべき」である。病理診断の役割は名前を付けることだけではないのだ。ヒロセスズのプライベートは放っておいてあげたいが、細胞の挙動はすべてチェックして報告するべきだ。
名前を付けるときは「直観」がメインだった。挙動を追う段階では「描写」をする。これらはおそらく脳の働きとしては微妙に違うものだと思う。挙動を追う段階でもまだ直観は作動していると思うのだけれど、「その細胞の名前がなにか」に比べると、「その細胞がどうふるまっているか」のほうはすごく言語化しやすい。ブラックボックス感はない。
浸潤の度合いはどうか。線維化や血管の増生はいかばかりか。壊死はないか。炎症細胞を伴っているか。これらも私たちは「所見」と呼ぶ。
ヒロセスズの髪の毛の色や目の大きさ、服のセンス、全体に醸し出されるかわいらしさみたいなものが、イコールヒロセスズであると結びつけられるか? それはすごく難しいだろう。なぜヒロセスズがヒロセスズなのか、髪が長いからヒロセスズなのか、目が大きいからヒロセスズなのか。違う、それはヒロセスズだからヒロセスズなのだ。しかし、ヒロセスズが歩いた、スマホを見た、走った、コートで3 on 3をはじめた、みたいな描写は、言語化することで確かにヒロセスズの様子をきちんと伝える。これらは欺瞞ではない。
病理診断における所見にも同じことが言える。なぜそれが腺癌なのかを語っているときの「所見」は多少なりとも欺瞞を含んでいるが、その腺癌がどう振る舞っているかの「所見」はまさにそのまま必要な描写である。
以上を踏まえて、私たちは、病理診断を書くときに、所見をどれくらい書くかに頭を捻る。
ヒロセスズがいたよと人に伝えるときに、「本当にヒロセスズだった?」と聞かれると困ってしまう。だってすごいかわいかったよ、と言ったら、「ヒロセスズ以外にもかわいい人はいるよ」と返されるかもしれない。病理診断における「診断のための所見」にもそういうところはある。けれども言ってしまうのだ。実際にヒロセスズを見たら書いてしまうのだ。「かわいかった」と……。病理診断における「診断のための所見」も、まさにそういうニュアンスを含んでいる。実際に腺癌を見たら書いてしまうのだ。「構造異型がある」と……。そして、「ヒロセスズ何してた?」と聞かれたら、嬉々として「こっち向いて笑って手を振ってくれたよ」と伝える。これはもう絶対に言いたい。病理診断における「挙動を表す所見」も同じだ。絶対に書きたいのである。「あっち向いて浸潤してリンパ球と戦ってた」と……。
問題は私が道端でヒロセスズに会ったことがないので以上がすべてかなり痛々しい妄想で書かれているということだ。ヒロセスズは存在しない。病理診断は存在する。そこは大きな違いである。