妄想人類諸君に告ぐ我々は今日も酔っ払った半透明だった

そうとは直接書いていないことを想像して、頭の中で情景をふくらませていく。小説を読むときには誰もが自然とそうなるものだ。

王様の体格や口調はどうなのか、彼女の撒き散らしている香水のにおいはどんなものなのか、誰が誰に目配せをしていたのか、それは昼なのか夜なのか、誰がどこに皮肉を感じ誰が誰をうっとうしく思っているのか。

これらは勝手に巻き起こってくる。書いてないことを補正しようと意図して考えるようなものではなくてふわっと思い浮かんでくるのだ。書いてないのに。

「行間を読む技術がなければ小説は楽しめない」みたいな話をしたいわけではない。それよりももっと手前の話。「私たちは、いつのまにか、勝手に行間を読んでしまうカラダになっている」。




話は猛烈な勢いで変わる。内視鏡(胃カメラとか大腸カメラ)を持つ医者が患者の胃腸を覗き込んで、そこにあるものが病気なのか、病気だとしたらどんな病気なのかを考えていく過程のこと。

そこになにものかを見つけた医者は、見たものを見たまますべて言語化したり誰かに説明したりすることなしに、「ああこれは幽門腺腺腫だな」とか、「うーむこれはリンパ球浸潤癌だな」といったように、ある程度ブラックボックス的な思考を経たうえで、診断名をぽんと思いつく。

文字通り「思い浮かぶ」という言葉がしっくりくる。ふわっと、ぽこんと、浮かんでくるのだ。思考の深淵からもやりと立ち上ってくる霧のようなものがきゅるんと渦を巻いてだんだん実体化するようなかんじで診断名がいつの間にか「やってくる」。

ただし、医者はそれを、「経験と勘によって幽門腺腺腫という診断名が半ば自動的に思い浮かびました」と患者やまわりのスタッフたちに吹聴したりはしない。だってなんかそれはいかにも雑ではないか。誤診も多そうだ。

そこで理屈を用意する。後から理屈を付けていくというよりは、エンジンを有するバイクの横にサイドカー的にぴったりくっついて伴走するみたいな感じで、「あっ幽門腺腺腫っぽいな、なぜそう感じるのだろう。それは今までに見てきた幽門腺腺腫とどことなく似ているからだ」とか、「おっリンパ球浸潤癌っぽいな、なぜそう思えるのだろう。それはたぶんここで見えている毛細血管のパターンは下から癌とリンパ球によって上に押し付けられているような形態を示していると私が解釈しているからだ」みたいに、ブラックボックスと付かず離れずの距離で言葉を自転させながら公転させる。


で、私は、そのように医者が判断し、治療を行って取ってきた病変を、顕微鏡で見て確認をする。

そういう仕事だ、病理医とは。

そこではときに、不思議なことが起こる。


医者が自信満々に「幽門腺腺腫ですよね」と思って取ってきた病変が、幽門腺腺腫ではないということがある。えっ、それって誤診ですか!? いや必ずしもそうやって目くじらを立てるべき案件でもない。幽門腺腺腫に似ているけどちょっと違う腺腫、みたいなかんじで、治療方針はどのみち一緒なので患者にとっては別に悪いことではなかったりする。

ただ、医者は動揺する。間違いは間違いだからだ。

「えー……あんなに理論武装したのになあ……」。

病変の姿をきちんと言語化し、理屈を立てて、根拠をしっかり揃えているのに、それでも診断を間違う。直観だけで診断して間違うならまだわかる。でも理屈を揃えたはずなのに。

医者の診断を、病理医が細胞を見ながらひっくり返すというのはそういうことだ。向こうも素人ではない。必死で考えて念には念を入れた結果、それでも間違えていることがあるのだから大変だ。

であれば、私たち病理医は、「なぜその医者は正しく診断できなかったのだろうか」ということをたくさん考えるべきである。



「見た目が似ている別の病気とまちがえた」というのが一番シンプルな理由だ。そこをぐっと広げて細かくする。似ていますからねーで終わってしまってはだめだ。

見た目が具体的にどう似ているのか。上皮成分の形態が似ているのか。間質の量が似ているのか。血流の量が似ているのか。炎症の加わり方が似ているのか。

さらに、「似ているかいないか」だけではなくて、「なぜ、結果的にまちがった推論を立ててしまったのか」まで踏み込んで考える。「最終的にはまちがいだったわけだが、病理診断がなされる前はあたかも完璧に理屈がつながっているように見えたのはなぜ?」というところを解析する。


これには本当にたくさんのバリエーションがある。

マリオとルイージは色や背丈が違うから普通は見間違わない。しかし、帽子やヒゲの形は似ている。カラーリングと身長を見比べるということに思考が及ばないまま、帽子やヒゲといったパーツの形だけで判断をすると間違うかもしれない。「推論が狭い範囲で回されている」と間違う。

ポケモンとデジモンはまったく違うコンテンツだ。アニメポケモンでやっていることは収集と成長。アニメデジモンでやっていることはサバイバルバトルだから本当にぜんぜん違う。しかし、少年少女がたくさんのモンスター的なものとかかわるという概念自体はまあ似ている。「要約のしかたが偏っている」と間違う。

昔、ある英語教師が「ドラえもんはよくないアニメだ、なぜならのび太は努力しないでドラえもんの道具にばかり頼って楽をしようとしているからだ」と言ったとき、私は思った。こいつ見てないな、と。さほど見てないのに自分の中で想像をふくらませてストーリーを作り上げている。「観察結果から導ける推論を越えて妄想をふくらませる」と間違う。

診断のエラーにおいて特に無視できないのが最後の「妄想をふくらませる」というやつかなと思う。妄想? やめなよ! と言えるほど私たちの脳は冷酷にはできていない。

冒頭で小説の話をしたことを思い出してほしい。私たちは、そこに「ストーリー」が読みとけそうな雰囲気を感じると、自動的に物語を組んでしまう。病変の表層が一部ゴツゴツしていて、一部は光沢があるのだが一部は形態が乱れているとき、「癌であれば不整な増殖をするからゴツゴツになるし形態が乱れる、だから癌だ」と、推論を猛スピードで伸ばしてしまう。

ほんとうはそこまでは言えないはずだ。良性だってゴツゴツすることはある。炎症だって形態を乱す原因になる。でも「癌というストーリーに乗っけてしまう」。そこまで具体的に書いてないのに、行間を深読みしてしまう。

自分がそのような思考をしていることに自覚的でないと、診断の精度はなかなか上がらない。




病理医がやるべき仕事は「ブブーその診断は違います。こっちです」と正解を提示することだろうか。私はそれだけではないと思う。あなたがなぜ正しい推論にたどり着けなかったのか、そのわけをセットで説明してなんぼだろう。病理医が、顕微鏡で細かく細胞を見られることをいいことに、「私の診断は正しい、なぜなら私はこれこれこういう細胞を見てこのように理屈を組み立てたからだ」みたいに胸を張ったとしてそれがなんの役にたつのだ。医者は、「お前が正しく推論したのはわかったけど、じゃあなんで、我々は正しく推論できなかったんだよ……」という不満を残す。それではいけない。

「人は生まれながらに妄想気質である」ということとまじめに向き合ってその対策を立てることは、病理医の大事な仕事なのではないか。「この所見だけでこっちの推論に飛びつきたくなるのは人情ですけどちょっとまってください。この人は特殊な炎症が背景にあるんです。だったらこういう所見が出るにはただひとつの筋道だけじゃない、ほかの可能性も出てきますよ」。

人情と戦う。人の性と戦う。どうもそういう仕事のような気がする。