でんでん太鼓脳

PCの向こうの壁には付箋を数枚貼ってある。付箋のノリはだんだん弱くなるのであとからセロハンテープで補強しているのだがそのセロハンテープ自体もだんだん剥がれそうになってきている。そうまでして、毎日目にして覚えたかったものとはなにか。

・数→性質→大小→新旧→形→色→年(起源)→材質: two benign large new round white peripheral chondroid tumor
・mixed (composite)とcollisionとamphicrineの違い
・cancer patients × / patients with cancer ◯

たとえば最初の「語順」は、これ、ビックリマンのヘッドを第1段から順番に覚える(スーパーゼウス→シャーマンカーン→スーパーデビル→聖フェニックス→……)とか、ワンピースで仲間が増えた順番(ゾロ→ウソップ→サンジ→ナミ→……)とかといっしょの単なるオタクムーブである。Benign peripheral chondroid tumorをperipheral benign chondroid tumorと書いたからと言って日本国内で殴られることもない。しかしかつての私はこういうところをちゃんとできる自分でいたかった。

次のもなかなか意味深だ。

Mixed (composite):ある単一のものから別様のものに分化して混在しているようす
Collision:衝突、もともと別のものが同一箇所に混在しているようす
Amphicrine:基からふたつの性質を併せ持つ成分があってそれが増殖して混在するようす

すなわちこれらはcombined tumor(混合型腫瘍)の細分類である。混合型といっても何種類かのパターンがあるんだよという概念を整理するためにこれらの分別は必要だ。しかしぶっちゃけ日常診療の場面では細かいことを言わずに「combined」と書いてしまえば用が足りるとも言える。

英単語のニュアンスを細かく覚える必要がどれだけあるかは疑問だ。でもなんかそういうのが見分けられる・使い分けられる自分でいたいと思ったのだ。



いつしか付箋が貼ってあることを忘れて背景放射となっていた。毎日目にするせいでかえって忘れてしまっていた。横丁の中華料理屋の横が更地になっていたけれどあれ? あそこって前は何が建っていたんだっけ? 毎日見ていたはずなのに思い出せない……のアレといっしょであった。そしてこれらは結局のところ、私が何を苦手としており、何をひけめとしているのかを如実に現している。

私は英語とコミュニケーションと人間が苦手だ。そして見分けがつかない自分を恥ずかしいと思っている。「見分けがついていない状態で何かを一絡げにして語った結果、それを他人から指摘されるとしんどい」と思っているのであろう。




そうだろうか?




私が知りたがっているものは本当に私の内部にある恥や引け目を反映したものなのだろうか? 私の行動は言語化できる程度の無意識によって駆動されているのだろうか? どうもそれも都合の良すぎる想像ではないかとうたぐってしまう。うたぐって? うたがっての誤記? ああ、「勘ぐって」とcollisionしているのだ。そうか。

どうも私には自分のかつての行動に意味があると信じたいふしがある。意味もなく泥酔して酔った勢いであまり理屈の整っていない失敗をした、みたいなことがとてもいやなのだろう。そうだろうか? 私は根本的に何が好きで何がいやで、だからこういう行動を選ぶ、といえるほど合理的な人間だろうか? その都度たまたまタイムリミットに迫られて不十分なシンキングタイムの末に暫定的に選んでしまっただけ、その都度たまたま腕の届く範囲にあるものを握力でつかめる範囲で拾い上げてしまっただけ、ということはないだろうか?

とはいえ何もかもが複雑系のカオスの末の一期一会だと達観できるほど私の視線は上空にはないしそういうのも最近ちょっと苦手になってきている。



思い起こせば私はずいぶん長い間、理想の、なりたい、こうでありたい自分というものに囚われていて、そうなるための努力をし続ける自分でいたいとも思っていたような気がする。そうだろうか? 私の生き方はそうやって一本の太い芯の周りにあったと語りたいだけではないのだろうか。そうだろうか?