料理診断

スタンプだけのリプライを送ってくる人間が生理的に無理なのだが、そういえば、生理的に無理であっても調理すると食える食べ物というのが世の中には存在する。調理といってもそんなにガンガンに熱を通すとか切り刻むとかまでしなくても大丈夫で、たとえばウニ・ホヤ・ナマコあたりは器や盛りつけを工夫すれば、さほど本質的な見え方は変わらないのにグロさは激減する。そういうことなのだ。つまり生理的に無理というのはそれ自身の有する性質・器質に対して与えられる評価ではなくて、組み合わせ・関係性・アーキテクチャではなくテクスチャに対して与えられる感情なのであろう。SNSという場所で、愛玩動物や木石のアイコンと下の名前をもじったような中途半端なアカウント名をひっさげて、さほど関係性も構築していないはずの私にスタンプだけのリプライを送ってくる人が無理なだけで、同じスタンプを中学校の同級生が送ってきたら別に嫌でもなんでもない。そういうことなのだろう。そういうことなのだと思う。



珍しい症例を1例見つけたので、論文を書こうと思う。医療の世界ではいわゆる「1例報告」ではもはやどうにもならない、というのはよく言われることだ。Letterとかcorrespondenceと呼ばれるミニ論文もしくは論文もどきならいけるのだが、大学とかで偉くなるために必要な「研究業績」としては認められないのだという。しかし私がやりたいのは業績を高めたいのではなくてこの症例の珍しさを世に問いたいのだからこの際、アカデミックに認められるかどうかはいったんおいて、この症例をいかに多くの人に共有できるかというところを純粋に考えるべきなのである。

しかしここにはジレンマがある。情報を多くの人に信頼度を保ったまま届けるには「論文もどき」よりも「ちゃんとした論文」のほうが圧倒的に有利なのだ。もどきはもどきの手続きだけでヌルっと出してしまえるから、読むほうからすると、「まあもどきで我慢する程度の人間が書いた報告だってことだよな」という先入観がぬぐえない。「1例報告では論文にならないのだが、論文にならないと1例のすごさがうまく伝わらない」ということなのである。そこでいろいろと考えを巡らせる。1例だけをピックアップしてそれについてのみ語るのではなくて、「たくさんの症例の中から浮かび上がってきた1例」という形式にすることでなんとか論文としての体裁をととのえる。何十例も何百例も検討したように見えてじつはある1例を届けたいがために書かれた論文、ということを、読者は読む前には気づかず、読み終わったあとに「そうかそういうことか」と気づくように書くということだ。めんどうくさいなあ。今まで私はそういう1例を結局letterのかたちでしか投稿してこなかった。けれど今回はもうちょっとがんばってみようかなと思う。素材そのものをただぽんと出しても病の理(ことわり)としては認められない、すなわち「病理的に無理」なので、丁寧に丁寧に調理することで、それそのもののうまみだけではなく組み合わせ・関係性・テクスチャとしてのおもしろさを引き出してやるということなのである。そうかそういうことなのか。そういうことなのだろうな。