迷路を命ず

Amazonプライムビデオに加入しているのでいろいろ見放題だ。この「いろいろ」の中に、当然、私向けのコンテンツもそうとうたくさん入っているはずである。

しかしなかなかこれぞというコンテンツにたどり着かない。

私もかれこれ28年くらいはインターネットを使っているのでさすがに検索能力は高いはずだ。事実、日頃自分がほしいと思った情報は仕事だろうがプライベートだろうがわりとすぐに手に入る。しかし「Amazonプライムビデオのこれぞというコンテンツを探す能力」は残念ながらあまり育っていないようだ。かれこれ2年くらい、いいコンテンツがないかなとことあるごとに探しているのだけれど、検索にかけた労力と得たコンテンツとが釣り合っていない。みんなが言うほどAmazonプライムビデオを楽しめていない。

Amazonプライムビデオのようなネット上のサブスク的コンテンツを検索すると、「出てきやすいもの」と「出てきづらい」ものがある。そして私が見たいのは「出てきづらいもの」、「探しづらいもの」のほうにあるようだ。とはいえ、奇をてらったものばかり見たがっているというわけではない。かつての名作と言われるものが検索では出てこず、知人に教えてもらって「なんだあるのか」となったことが何度かあるからだ。「より多くの人が検索するであろうコンテンツを紹介したアフィリエイトブログ」に私の思う名作はなぜか含まれない。そこの差が縮まらない。

マニアックなコンテンツ探しといえばTwitterだ。Xになってからもわりと便利で使ってはいるが、かつてのあのオフセット衝突するかのような出会いは激減した。私が出会えるのはいかにも私っぽいコンテンツばかりである。それはうれしいことだがそれだけでは足りない。

世にオタクはいっぱいいる。そしてオタクは一枚岩ではなく、私はオタク的器質はあるけれど王道のオタクではない。オタク向けのコンテンツだからと言ってなんでも愛せるわけではない。オタクが狂喜乱舞するようなコンテンツばかり並べられても別にそういうのはいらないですという気持ちになる。




こうやって書いていて思うのだが、自分に合うコンテンツが多少の検索で出てくるはずと思いこんでいることのほうがバグなのだろう。たくさんの本屋を何年も何年もうろうろしてようやく見つけた一冊の本、くらいの打率でAmazonプライムビデオを毎日掘り進むべきなのだろう。しかしサブスクコンテンツにそこまで時間をかけて宝物を探し出すという行為はすごく損に感じる。「いくらでも見られます」と「これぞという一本に巡り会えます」の相性は悪い。

私はおそらくサブスク全盛時代にじわじわと「がまんづよさ」を失っていて、コンテンツを探せなくなってきているようである。






燃え殻さんの『これはただの夏』が文庫になった。1か月くらい前に気づいてAmazonで予約しておいたらきちんと発売直後に職場に届いた。仕事のメールが立て込んで呆然として、なんか今日はもういいかなと思った夕方、届いたばかりの本を開いてそのまま2時間で一気に読み切った。じつによかった。すばらしかった。手に入らなかったもの、通り過ぎてきたもののことを思わず考える。

そしてこの本についてはなにより、「不思議な出会いだな」ということを強く感じる。もともと、誰かに強くおすすめされて買ったわけではない。タイムラインに何度も出てきたわけでもない。かといって自分で検索して探り当てたわけでもない。そもそも私と燃え殻さんの書く世界とは、さほど重なる部分が多いわけではない。これまで私が読んできたものが必ずしも燃え殻さんの書くものと似ているとも思わない。サブスクなら私は選ばなさそうなジャンルだし、アルゴリズムなら私におすすめしてこなさそうな文学なのだ。

でも私は『これはただの夏』をウェブ連載で読んだし、単行本でも読んでいて、つまりはスジもぜんぶ知っていて、さらに今回文庫になったというのでまた購入している。これはいったいなんなのかと思う。

私は基本的に小説を二度読むことがない。『これはただの夏』は別だ。特別なのだと思う。それにしてもなぜ自分がこの本を特別に感じているのか、言語化しようと思ってもうまくできない。誤解を恐れずに言えば勝算があって買ったとか読んで後悔しないから買ったという表現もいまいちピンとこないのだ。でも私はこの本を買って読んでとても満足をしている。

つまりそういうことなのかと思う。私が気に入るコンテンツとはそもそも、探して見つけるとか、すすめられて出会うといった、経済の中で画然と概念化された理路の先にはなくて、今の私がまったく理解していないなぞの迷路のどこかに、今の私がまったく言語化できない姿勢でぽつんと立ちすくんで私を待っているのではなかろうか。だったらじたばたしても無駄なので私はこれからもうろうろしていくしかない。Amazonプライムビデオの中にもおそらく迷路があるのだ。私はまだその迷路に入り込んですらいないのだろう。