日常回

ちょっと深酒をしてしまい、朝起きると、首が寝違えたか寝違えてないかぎりぎりのラインの痛さを発している。ぎりぎりである。左側の側頭部だけ髪の毛が増えたような寝癖もついている。髪の毛をぬらしてからご飯を食べて食器を洗ってふたたび鏡をみると寝癖は少しおとなしくなっており「起き癖」くらいにはなっていたのでまあこれなら出勤してもよかろうと判断する。職場に付くと天井の蛍光灯が1箇所切れていた。たった1箇所だけでこんなにも暗く感じるものなのかと思う。ふだんが明るすぎるのだろうか。窓から朝の光が入っていても検査室内はどことなく薄暗く、でもその暗さはたった1箇所の蛍光灯が切れていたというだけのことなのだ。ふだん、たくさんの要素によってバランスを取っているものがあったとして、その1箇所が急に仕事をしなくなると全体が一気に不調っぽくなるというこの現象、なんというか、人間の体みたいなもんだなと思う。ただし実際のところ、世の中のものはなんでもかんでも人間の体にたとえることはできる。株価が乱高下するのも同級生の三角関係もサッカーの戦術もおかたづけの秘訣もすべて人体にたとえることができる。あっぱれ人体。あっぱれ人体というのは山本健人の本の名前です。


フォカッチャの母親はふぉかあちゃんである、というポストをした。クソ引用がいっぱいつく。フォカッチャの赤ちゃんはふぉかあかちゃんか(ふぉかちゃんだろう)、光粒子の父親はふぉとんか(それはそうだろう)。ちなみに、おとうさんをオトン、おかあさんをオカンと呼ぶルールを拡張するとあかちゃんはアカンになります。


新しい講演のスライドを作らなければいけない。記録によるとこれまで肝臓にかんする講演は22回ほど行ってきたが、そのどれとも異なる話を今回はしたい。講演するのは半年くらい先。でもなるべく早くプレゼンを作ってしまいたい。仕事というのは前倒しにするに越したことはない。「明日できることは今日しない」というポリシーは、昨日も今日も明日も基本デフォルト急な予定でてんてこまいほぼ確の私にはうまく適用できない。どうしてこんなにいつもばたついているのだろう。長年ひとつの病院で暮らして完全に最適化された行動しかとっていないのにこの体たらく。午後3時ころに仕事が一段落してあとは文庫本でも読んで終業を待つ、みたいな働き方を一度くらいやってみたかった。


病理診断の標本をいくらみても、その臓器や細胞が体の中で生きていたころのダイナミズムはわからない。わからないというと語弊がある、推測は可能だ。しかし推測しか可能ではない。そこがはがゆい。推測の確度を高めるにはふたつのやり方がある。ひとつは統計学的な処理だ。こういうときはこうだよねというデータをばんばん蓄積することで、このパターンならたいていこうだよという類推が切れ味のよいものになる。もうひとつは神になることだ。神だから何でもお見通しである。理屈が途中すっとばされていても神ならばしかたがないしそれが当然だ。デウス・エクス・デウスである。そんな言葉ないわ。


だいたい書けた書けた。今日もブログがだいたい書けた。あっ、でも、数字をぜんぶ漢数字に揃えようかなあ。まあいいや。そういうのは校正とか校閲の人が仕事でやることだからな。ウルトラマンの歌の「ひかりのくにから ぼくらのために 来たぞ われらの ウルトラマン」を聞いて編集者や校正者は「ぼくらとわれらで表記揺れしてんじゃん……」と落ち着かなかっただろうか。でもあれは、合唱曲なのだ。子ども合唱団が「ぼーくらのために」と歌ったあとに、大人合唱団が「来たぞ われらの」と歌って、そこから「ウルトラマン」を全員で歌うのだ。だから表記揺れではないのである。まあ今考えたウソなんだけど。あっ、でも、ウソは嘘って漢字で書いたほうがふんいきがいいかなあ。