大量最終回

2024年をあとからふりかえってこんな年だったよと説明するときみんなが一番「あー」となるのはなんだろうか。パリオリンピックがあった年です、というのが無難だろう。しかし大谷翔平が打者としてすごかった年ですと言えなくもないんだよなと思った。まったくすごいことだ。問題があるとしたら、来年以降さらに大谷翔平が活躍するかもしれないという、わりとありえる更新の可能性だけである。世界中がやっきになって盛り上げるスポーツのお祭りよりもいちアスリートのホームランや盗塁のほうがあとから振り返ってその時代を象徴するかもしれないというのは本当にすさまじいことだと思う。

「大きな物語」の主人公。

子どもの見る夢。

一方で私は小さい物語、断片化した物語、コマ肉のような物語をひとつひとつ瞬時に、小範囲で、あまり荷重をかけず、そっと、解決しながらクレペリン検査のように「次。次。」と毎日を過ごしている。重心をゆらゆらと移動させながら総体としての私をぼんやり成り立たせている。、畏怖するように大谷翔平の活躍を眺めながら、私は私の小さなたくさんの物語を次々と演じては引退してを繰り返している。



とある製薬会社に小学校時代の同級生がいて、お互い肌ツヤや髪質はあのころからだいぶ変わったのだけれどなんとなくおもかげも残しており、ここんとこたまたま彼はうちの病院が担当範囲になったということで、病院内で会って談笑したりする。この話をすると牧歌的だねえと言っていろんな人に微笑まれたり、わずかに微妙なリアクションをされたりする。製薬会社の人間と医療職の人間とがホイホイ顔を合わすというのはコンプライアンス的に・コンフリクト的にNGというのが世の趨勢だからだ。近年、どこの病院も、営業・MRの方々に対して冷たくなっており、どの医者もアポイントメントなしの飛び込み営業は受けない。一方で、製薬会社が私(病理医=投薬をしない職業人)に営業をかける意味は基本的にないので、私の部署は昔からそのへんの管理がゆるく、私が在室しているならそこそこ気軽に入ってきてよいよという方針でこれまでやってきた。するとおもしろいもので、どの会社の営業も、入っていいと言っているのに入ってこない。事前に手紙で確認をとり、メールで連絡をして、「セミナーのパンフレットをお持ちしてもよいですか」みたいにすごく念入りに許可を求めてくる。別にいいのにな、とは思うのだけれど、「病理医のところだけはゆるいよ」みたいな個別の物語をいちいち捌くほうが脳と指の負担になるから、医者だというくくりで全員まとめて慎重対応ということにしているのだろう。


ある日、同級生が、我等よりちょっとだけ若い営業を引き連れてデスクにやってきた。世間話でもするかあというムードをいったん棚上げにしてまずはその若い営業の話を聞く。最初は良かったのだが途中から雲行きがあやしくなってきた。

「◯◯(自社製品)専用のコンパニオン検査と、△△(他社製品)専用のコンパニオン検査がありますが、ぜひ〇〇用の検査をお出しいただけませんか!」

あまりに直球のビーンボールが来ると打者は避けられないというが私は衣笠並の鉄人なのでふつうに避けた。

「いやそういう検査は病理医の一存でこっちにするとかしないとか決めたらだめですよ」

そして避け終わったあとに、ああそうか、彼は病理医という「臨床医に比べると突破しやすい穴」を見つけたと思って、投薬の権限がある臨床医を抱き込むよりも「投薬の前段階で、自動的にその後の投薬に影響があるような検査に口出しできる病理医」を味方につけようとしているのか、と少し遅れて構造を理解する。

私はむらむらと怒りが湧いてきた。こいつはもう出禁だなと瞬時に思い、しかし次の瞬間、いや、このようなぬるい対応を検査室に許していた私がそもそも甘いのだということに気づいた。ありとあらゆる製薬会社は商売でやっているのであって究極的には患者のことなど考えてはいないのだ。患者のことを考えている医者のことをよく考えて、彼らがあるいは、なにかのさじ加減によって自社の製品をちょっとだけ本来よりも多く使ってくれたらそれに越したことはないという営利企業の大きな物語、あって当然のプロットを私が知っていたはずなのに知らないふりをした、あるいはその物語は私にとってまったく無関係だと鼻をくくった態度で後方指組み前方小石蹴りに勤しんでいた、そういう私のうかつなガードのゆるさがそもそもの原因なのだ。

私はとりあえずその若い営業がしゃべり終わったあとに同級生としばし歓談をした。彼もまたすべてをわかっている。私たちはそれでも「35年前に同じクラスにいたガキ同士が5分かそこらで近況をやりとりする」という小さな物語を終えることに今の体力を振り分ける。

彼らが退室する(完)。10分の間にやってきたメールに返信をする(完)。電話がかかってきて問い合わせに答える(完)。手術検体の病理診断のチェックをする。胃癌(完)。肝臓癌(完)。肺癌(完)。乳癌(完)。生検が上がってきていたので研修医や専攻医にマッペを振り分ける(完)。学生見学の問い合わせに電話で答える(完)。同級生の顔を思い出し、彼と会うことはもうないかもしれないということを考える(完)。