46歳なう

トレンドに『からくりサーカス』が乗った日、自分でもからくりサーカスは名作だとポストしたところ、おすすめタイムラインがからくりサーカスをほめたたえる投稿であふれてなかなか気持ちがよかった。アルゴリズムのせいで受動的には使いづらくなったSNSが一時的に能動的に微調整できて思った通りの挙動を示してくれることがあり、「DV彼氏がときどきやさしい」みたいなシステムにまきこまれてころっとだまされてしまう。共依存の一蓮托生。私は今もこうしてXによって生かされている。

からくりサーカスはよい。練りに練ったプロット、有形無形のインプットの末にまろび出たであろう美しい構図、筆圧が伝わるような作画、研ぎ澄まされたセリフ。彫刻でクレイアニメを作ったような作品だ。パンチが遅くてかえってよけられなくて頬骨にめりこんでいく、みたいな強い作品だ。体調を整えて身を清めて正座してどっぷり浸からないと跳ね返される。でも、ポテチ片手にソファに足を投げ出しながら読み始めても頭に入ってくる。不思議だ。

一方の私。瞬時に反射でニヒルに避けているうちになんとなく日々が前に進んでいく。グラディウスIIIの高速スクロールステージのような暮らし。ウェブマンガ、縦スクロールマンガ、手軽にPVを稼いで金を右から左にぎゅんぎゅん回していくベルトコンベアの中央車線に私はあぐらをかいている。アルゴリズムとフュージョンしたオートマータであるところの私は、ぶつくさぶつくさインターネットに文句を言いながら、その実、感覚器官のかなりの部分をスマホの画面にくっつけたままにしていて、仕事の合間も移動中もSNSトレンドを中心としたピボットターン以上のところに手を伸ばせなくなっている。ブログを書き始めるきっかけも高確率でXのクソリプだ。

そんな私を、いまどき珍しくなってしまった真に生身の人間が精魂込めてくみあげた「からくり人形」が殴る。時は美しく止まり渦を巻いて逆流をはじめる。


賛否両論あるだろうからあくまで個人の意見として冷静に読んでほしいが、アニメ『からくりサーカス』は作画はよかったし商業アニメとしては及第点なのだろうがマンガを読んだ私たちにはもの足りないところが目についた。ストーリーを省略しなければならない都合の部分とかは百歩譲ってそこはどうでもいいのだ。そういうことではないのだ。なるべく声を小さくしていうのだが、アニメーターや声優などの獅子奮迅の努力には敬意を表するけれども、おそらく、アニメ制作首脳陣がこの物語を真剣に考え抜いた時間が単純に足りないのではないかと思った。藤田和日郎はそんなに短い時間で決断をしていないはずなのだ。藤田和日郎はそんなにすばやくコンテンツを仕上げていないはずなのだ。そこが足りなかったのだと思う。そこが「軽かった」のだと思う。


老害の典型的な行動のひとつに、若者に対してすぐ「考えた時間が足りない」と言う、というのがある。長く生きているほうが若いほうを殴るのにこれほど便利な言葉はないのでよく使われる。からくりサーカスの話をするとき私はすぐ老害ムーブをかましてしまう。しかし、ここでふと思ったのだが、からくりサーカスを執筆したときの藤田和日郎先生の年齢はおいくつだったのだろうか。藤田和日郎先生は今……60歳。からくりサーカスの連載は1997年から2006年。つまり……。33歳から42歳のときだ。なんだ。今の私よりぜんぜん若いじゃないか。ははは。いいか私たち。考えた時間が足りないぞ。からくりサーカスを見ろ。あの前で「私はずっと考えました」なんて言えるか?