まとまるために嫌う

講演料はおろかセッションの概要すら提示することなしに来年の予定をたずねてくるメッセンジャーのフランクな語りかけにがっくりとする。自分はこの程度の扱いに甘んじなければいけない程度の人間だからな、と感じて自己否定感を高めていく。自分という曖昧な領域のキワと世界とがせめぎ合うところで損傷が起こり、肉芽が形成され、線維化が起こって、被膜のように私の境界線が確定する。世界からの入力に反応して私の膨張に否定的な圧がかかることでかえって私という領域ははっきり視認しやすくなっていく。もし、私が自分を肯定ばかりしていると、外界とのコンフリクトが起こりづらくなって境界線が定まらずに周囲に対して浸潤をはじめる。それはよくない。浸潤を来してサイズが増大すると、周囲からの血流が中心に届きづらくなるため中央部は次第に虚血に陥り、融解壊死して自壊する。一方、辺縁部では周囲からの盗血によって細胞増殖が持続するので、結果的に私という病変は二次元でみればドーナツ状、三次元でみればマジシャンが種だけ抜いたアボカドの実の部分のような形状で生き残って増殖を継続することになる。好意的にとらえられる増殖ではなく異常増殖だからいずれは周囲にも損害を与えることになる。私は回りを飲み込むように肥大を続けるアボカドではありたくない。だから、自己否定感のほうが自己肯定感よりも大切である。


とはいえ自己のありとあらゆる部分を否定してもよいことはあまりない。自分の中で自分を保つために張り巡らされたネットワーク、それはアイデンティティにかかわるものであったり、自分を維持するために必要な栄養を行き渡らせるためのものであったりするが、これらを自己炎症的に攻撃してしまうと、自己の維持が立ち行かなくなる。内部に炎症を抱えたままでは境界を定めるどころかかえって浮腫をきたしたり痩せをきたしたりして自己の形状や物性が不安定になる。線維化を起こして硬くいびつに引き攣れることもあるだろう。自己を否定するにあたっては、どこでもいいから否定するのではなく、自他の境界部に狙いをさだめ、異常増殖が起こりそうなところに絶妙の精度とタイミングでプログラム壊死を誘発して新陳代謝の回転を安定させることこそが肝要になってくる。内部に同時多発的に攻撃を加えてしまったら、節々が傷むし熱も出るし食が細る。そうなるともう自分の力だけではもとのバランスに戻すことは難しくなってくる。


自己否定は自己肯定と同じくらい難しい。否定しすぎても肯定しすぎても自己は保てない。周囲からの圧が強くて押しつぶされそうなときには自分を肯定することは役に立つが、世界と押し合いへし合いして疲弊してしまってもよろしくない。一方で自己の増殖圧が高すぎて抑制が効かない状況では周囲は迷惑するし戦線を延ばしすぎたモンゴル帝国のように内部崩壊に陥っていくだろう。ちょうどいいバランスというのは難しく、それはたとえば決め事のようにしてしまってはだめで、刻々と移り変わる情勢にあわせて逐次調整をかけていくような姿勢が必要なのだと思う。「自己肯定感を高めましょう」みたいなブログに私がもっぱら嫌悪感を示すのも「それは腫瘍化するだろう」という懸念をふりはらうことができないからだ。


書いているうちにそこそこ書けてしまう今日の記事に不満がある。精神や人間にまつわる現象を人体や疾病に例えるというのは一種の甘えだしタブーでもある。この程度の深度で言い表せてしまう以上はおそらくいろいろとりこぼしているのだろうというあきらめのような気持ちもある。書いているうちにたとえに引っ張られて言う必要もないことを書いてしまっているのではないかという懸念もある。ぶくぶくと増殖する自分を抑え込んで局所局所で適切に分化誘導をかける。化生しそうになる。過誤腫的にもなる。