松の廊下を駆け抜けて

30代の私はよくイヤホンと共に働いていた。Number Girlの珍・NG rare tracksというアルバムの中に入っている「モータウン」という曲が特にお気に入りであった。ZAZEN BOYS、LOSTAGE、bloodthirsty butchers、agraph、HiGE(髭)、Z、miscorner/c+llooqtortion、SuiseiNoboAz、VELTPUNCH、かくら美慧、ペトロールズ、宇宙コンビニ。「大御所」でいえばthe Pillows、くるり、サカナクション。これらを延々と流しながら顕微鏡を見たり組織標本写真を撮ったりパワポを作ったりしていた。何度か無線イヤホンを用いたが、12時間くらい経つと充電がなくなって不便なので、結局有線のイヤホンに戻した。

あの頃の私は耳から音楽が入ってきても仕事ができた。

顔の見えない遠くの他者のつくった音楽を借りて、顔の見える近隣の他者を拒絶して働いていた。

非・人間とのコミュニケーションによってデフォルトモードに通奏的な刺激を与えて人間とのコミュニケーションの価値を相対的に下げていた。

地表にたったひとつの穴しか開けずとも地中でうろうろじたばた暮らせる蟻の巣穴を思い描いた。

自分の持ち物によって自分を活性化する疑似オートクラインのような個細胞的挙動に身を任せた。

目は基底細胞分化をずんずん探り、耳はエレキベースをずんずん探っていた。

八方美人な五感が手分けして私を維持していた。


かつてWindows PCの中にはドキュメントやピクチャと共にミュージックというフォルダがあった、気がする。しかし今そのようなフォルダを探しても見つけることができない。いつのまにかなくなっていたようだ。PCを買い替えるたびにデータを移し替えてきたバックアップのHDDの中に、自作のmusicフォルダがあるが、たぶん今のPCになってから私はこのフォルダを使ったことがない。iTunesは使い勝手がどんどん悪くなって、昔買ったデータの一部がうまく再生できない。SpotifyやYouTubeで聞きたい音楽にそこそこたどり着けるし、関連再生があたりまえになってジャンルの内外を少しずつ漂流するような視聴が習慣化して、固定したフォルダの音楽を何度も何度もこするように聞くことはない。

それと関係あるのかないのかはむずかしいところだが、今、私は音楽を聞きながら働くことができなくなった。


仕事はあっという間に終わる。診断も写真撮影もパワポづくりもだ。そしてすぐに次の仕事が入る。版画を掘るように働いていたのがいつのまにか書道のような働き方に変わった。合間、合間に電話が鳴り、同僚が話しかけてくる。私はそれらに耳を開放している必要があり、イヤホンは置きっぱなしになってゴムが黄ばんだ。始終頭の中で異なる数名がしゃべっていて、それらにうんうん相槌を打ちながら現実の病理標本にもウェブの検索論文にもAIの出力結果にもうんうん唸る。会話の背景に響くベース音はいつしかエレキベースから打ち込みに、MIDI音源やFM音源に変わった。短い展開を何度も何度もループしても飽きが来ないように設計されている音楽、すなわちゲームミュージックがずっと鳴っている。イヤホンをつなぐ必要もない。真のオートクラインで鳴っている。シムシティ、FF、ゴエモン、ゼルダあたりがよく鳴る。

しかしこれらのゲームミュージックを実際にYouTubeあたりで流しながら仕事をしようとするとぱたりと手が止まる。これはもう何度か試したけれどそうなる。働いている間、ずっと、脳内で流れているのに、それらを実際に流すと、働けなくなる。どうなっているのだろうと不思議に思う。

脳内に広がる情景は、外界を仮想的に再現し、時間軸バーを左右にぎゅんぎゅん動かしてさまざまな状況をスローもしくは倍速もしくはリピートで何度も再生することで、私が実際にそれらに遭遇した時の対処をすばやく的確に整えてくれており、シミュレーションも振り返りも自由自在なのだ。脳は便利だ。しかし、脳内で流れている音楽は、外界から飛び込んでくる音楽よりもヒヨワでやせほそっている。空気を伝わる音圧はシナプス間で組み上がった音階を吹き飛ばす……というか……思考は常に外界の情報をその都度刈り込み取捨選択する五感とその先によってかき乱される……というか……外部刺激を受け取る肌のふるえによってかき乱されるものこそが思考というものの本質のように感じる。



https://www.youtube.com/watch?v=nPSNdEAY3-Y