もう少しやることはあるのだがちょっと疲れてしまった。仕事をいったん置いて本を読む。読み途中だった『病理と臨床』の最新号。細胞診のピットフォール特集だ。
肺、子宮、甲状腺、膵臓……。脳腫瘍以外はどれも経験する可能性がある。
図版と解説文を見比べながら、何度もいったりきたりして、ひとつひとつ読んでいく。そこそこ時間がかかる。
ほんとうは仕事をしたほうがいい。でもまあ時間外だ。たまにはサボらせてほしい。サボって勉強をする。
「こういう細胞が出ると間違いやすいから気をつけろ」
このようなタイトルやキャッチがついた細胞を眺める。眺めて頭に叩き込む。病理診断にはそういうタイプの勉強法がある。
ただまあ、へんな話ではある。
「間違えやすい、難しいやつが今から出てくるんだな」と予測した上で細胞を眺めるというのは、言っちゃなんだけど「ずいぶん甘やかされている」。「難しい」ことがわかっていれば、こっちだって心の準備を整えて、細胞の写真をいつも以上に丁寧に見るからだ。そこまで心の準備ができていれば、あまり難しくはない。
しかし、日常診療で、目の前の細胞にあらかじめ「これは難しいやつですよ」と書いているわけではない。
落とし穴というのは隠されているものである。目の前にあきらかに穴があるとわかってそこに落ちていく人はいない。日常のピットフォール、誤診というのは、見えない。気付けない。忘れたことにやってくる。「これがじつは難しい症例だ」ということに気づけないときに間違う。
「難しい診断特集」なんてのは、言ってみれば「落とし穴がはっきり見える状態」で落とし穴に落ちないように気をつけようという特集である。落とし穴がぱっくりと口を開いていて、そのへりを歩いて、ほら落ちたら痛そうででしょ、怖いよね、気をつけてね、うんわかったよ、うん、甘やかされている。
厳しいことをいうようだが、誤診に注意、みたいな特集号をいくら読んだところで、誤診は減らない。
それでも読む。
読んでも読まなくても誤診するなら読まなくていいや、とはならない。それでも読む。1%でも、0.1%でも、誤診しづらくなるなら、そのほうがいい。0.1%の改善努力を1000行えば100%改善する……というわけでもないけれど、とにかくちょっとでもよくなる可能性があるなら、そこに労力を注ぎ込んでいく。
誤診にまつわる本を、普通に読んでもだめで、努力が必要だ。
ご丁寧に落とし穴を開示してくれている本の前で、私は、「これが隠された落とし穴だったら」というシミュレーションをくりかえす。
誤診の瞬間に思いを馳せる。
誤診という穴に落ちる数秒前、数分前、数時間前、数日前の状況、心のながれ、そういったものをいろいろと夢想する。
どこかの段階で落とし穴がありそうだと「察する」ためにはどうしたらよいだろうかということをたくさん考える。
本当にたくさん考える。
毎日考える。
朝、出勤して、顕微鏡の電源を付けるときに、「誤診しやすい病気」を一通り思い浮かべてからスイッチを入れる。
そういうたぐいの「考える」を、いろいろな場所に、習慣として設定する。
主治医から電話が来たら「そういえば最近カルテ確認してなくないか?」を考える。
免疫組織化学をオーダーするときには「何を頼み忘れると診断が1日遅れるんだっけ?」を考える。
依頼書を読むときには「書いてあったのに読めてなかったパターン」を考える。
所見を書き、取扱規約を参照し、診断文を書くときに、それぞれ考える。
診断の仮登録を押すとき。
本登録を押すとき。
節目節目で考える。節目以外で考えないことでミスをしては困るので、たまには、特にきりのいいタイミングじゃないときにも「ふと」考える。
そして「誤診にかんする本」を読むときもやっぱり考える。
本を読んだとき特有の思考をきちんと発揮させる。
シミュレーションする。妄想する。
金曜日の夕方18時40分くらい、そろそろ一週間の疲れが出てきて、最後あと数件の細胞を見て帰ろうかなと思っているタイミングで、こういう細胞を見て、かんたんかんたん、これはA病だろうとパッパと入力している最中に、今日読んだこの本に書かれているB病に関する記述をちらりとでも思い出すには、どうすればいいだろうかと考える。今はまだ水曜日なんだけど金曜日にそれを思い出すためにどうしたらいいかと考える。しかもそれは今週の金曜日とは限らない。
格闘技の訓練に近い。
「脳の腰」や「脳の脚」や「脳の腕」、すなわち「脳の体」に動きを染み込ませる。
反射で動くように。
理屈ではない部分で。
きれいな形で。
無理なく。
無駄なく。
診断は知的作業でありさまざまな理論に裏打ちされていて、そういう理論は日々の勉強によってどんどん膨らませていくことができるから、誰もが、診断を学ぶにあたって、理論的な・知識的な部分を勉強する。
でもそれだけだと足りない。同時に、別に、「なんかちょっとざわっとする」的な、言語化できない勘とか気のようなものを鍛えておく。それは理論とはちょっと別のものなのだ。そういうのは知識や知恵とは別の色味で本のページのすきまに挟まっている。本と私の脳のすきまに挟まっている。
不慮の事態が生じても、いや、不慮の事態が生じる少し前に、危機を予測して回避できるように、「脳の体」を鍛える。
剣道でいえば素振り。
正面素振り、早素振り、切り返し、こういった基本動作は、じつは試合の最中には使わないのだけれど、あっ! びくっ! いざっ! ぐっ! となったときにギャッと動いてしまう手首や足先のピクリのモーションは、何年も何年も繰り返した素振りによって鍛えた筋肉や神経によって運用されている。素振りが不十分だと、自分の想定を越えたタイミングや角度で相手の竹刀が飛んできたときに、反応が一瞬遅れたり無駄な動きがノイズとして入ったりして負ける。
思考の素振り。病理学的な知識を入れるためだけに本を読むのではない。そこに提示されている細胞像が目の前に来たと仮定して、しかも、このページに書かれているタイトルや解説文を読まずにこの細胞だけを、ある日あるときの私が見たのだということをきちんと思い浮かべて、そこで自分の脳がどの順番でシナプスを発火させるだろうかということを「未然に再現」して、「振る」。その形をみる。ゆがんでいないか。いびつではないか。もっときれいにならないか。もっと早くならないか。
誤診しやすい症例を見ながら自分が誤診するところを思い浮かべる。おちいりそうな私に私から言葉をかける。落とし穴に落ちる直前に自分で自分に声をかける。そこを想像する。必ずしも専門的知識が必要なわけではない。いや、専門的知識はそれはそれとして学ぶのだけれど、「私に声をかける私」というものを、きちんと作り上げておく。素振りをしておく。
サボり疲れた。仕事のほうが楽だ。また仕事に戻る。しかし仕事に戻って最初に見る細胞が「難しい症例」である可能性はある。可能性はある、と、さっそく自分に声をかける。はたして……特に難しくない症例を……見ながら……「からの、超難解症例」である可能性はないのかというのを、虚数時間にいる私がそっと耳打ちする。