ぞうさんぞうさん無償の愛なのね

「治療法はもう確定したのでこれ以上診断を深める必要はないけどでもいちおう深めてもらえます?」みたいな依頼がくることがあり、そうだよね、わかるよ、とつぶやきながら教科書を片っ端からぺろぺろめくっている。そういうことはままある。

・胃の良性腫瘍。とってしまえばもう大丈夫。でもどういう種類の腫瘍かわかったら教えてください、興味があるので。

・B細胞性の悪性リンパ腫、悪性度はあまり高くない。それで治療方針は確定しました。でもより詳しくわかるなら調べてください。

・皮疹、superficially perivascular dermatitis。あとやることはいっしょです。ステロイド塗って様子見る。でも結局なんなのか、わかるものならぜひ教えてください。

そういう声に答える仕事をしている。


いや、なんかこれはもう仕事ではない気もする。

病理医の中でもおそらく判断がわかれるだろう。

「そこまで付き合ってらんないよ、あとは研究の世界なんだから研究でやってくれ」という態度をとる病理医が、全体の50%くらいじゃないだろうか。

無理もない。現場をみればわかる。私たちは臨床医とくらべると本当に患者のごく一部しか見ていないから、一例一例の「重み」というか「負担」はたいしたことがないのだが、そのぶん、臨床医の10倍くらいの患者をみている。臨床医は一日に外来70人だって! 大変だ! でもぼく一日に700人くらいの病理組織標本について考えることはままあるよ。うっそだあ、だってそんなに検査の依頼こないじゃん。いや、それがね、研究目的で今そこにいない患者のプレパラートたくさん見るってことが、病理医にはあるわけよ。えっそれもう仕事じゃないじゃん。そうだね。診療報酬が発生してないじゃん。そうだね。給料に反映されてないじゃん。そうだね。

仕事の定義は人それぞれで、私にも私の定義がありそれは他人からどうこう言われる筋合いのものではない。生きる以上の金を稼ごうとする人間と私とは話が合わない。あの作家もあの建築家もあの研究者もあの芸術家も、今はもう、私と話すこともない。合わないのだから話さない。どちらがいい悪いではなく合わないから話さない。言語体系が違うからAIサポートなしに話すことはむずかしい。




台湾の映画「本日公休」を見た。古い日本の映画のようだった。主人公は長年理髪店をいとなむ、おばさんとおばあさんのハイブリッドみたいな女性だ。キーマンとして、その主人公の娘の元・夫(つまりは元・義理の息子)というのが出てくる。これがまた見事に、しなくてもいいことをするし、お人好しで、お金や仕事について自分が得をするように考えられないタイプで、車の整備をしているのだが友人やお得意さんはみんな代金をツケにしてしまうのだがそれをずっとよしとしている。そんな人を描く創作物というのは日本では「男はつらいよ」以降はほぼ絶滅してしまったのではないかと思うが、台湾では描かれていた。この映画は、特にイベントらしいイベントは起こらないし盛り上がる場所も特にないのだけれど、古くて新しい映画といった佇まいで、私は満足した。

元・義理の息子を見ていると、ああ、ものごとの優先順位を考えず、目先の人情で動いてしまう人間というのは、決して朴訥な善人という一側面だけでとらえるべきものではなく、良かれと思って社会のバランスを崩し、良かれと思って他者を傷つけ、良かれと思って物事を悪化させるような側面を確実に持っているなとあらためて思った。しかしそういう人間が一念発起して、他の忠告を聞き入れて、世の大半の人々がするように利己的な行動に移れば、そのときはそれまでの「無償の善」でなんとなく救われていた人たちが割りを食うことになる。問題はそこで「なんだあいつ、そこまでボランティア精神出すなら最後まできちんとやり通せや」といって周りがブチ切れるかどうかというところで、今の私の見聞きする範囲での社会は「途中まで無償の善をほどこしたタイプの人間」がいなくなると残った人たちはたいていブチ切れるのだけれど、少なくとも「本日公休」に描かれていたあの社会では、善者が前に進んで誰かを置き去りにしてもそこにはおそらくほのかな救いがある、といった希望のような夢のようなきれいごとのような現実の愛のようなものを私は見た。いい映画だったけどたぶんこのブログ記事が公開されるころにはもう上映している映画館はないだろう。あれこそは知識人どもがもてはやす「互酬性のない贈与」だと思うのだがそういうのはきっと時代の選択圧には耐えきれないのだ。