うなぎのタレがたらーっとたれたらうなだれる! うなだれる! と言いながら私はがっくりとうなだれた。学会の準備が終わらない。自分の発表ではなく主催のほうだ。病理学会の北海道支部は年に4回の定例集会(通称:交見会)を開催しており、年度ごとに主催施設が変わって、たいていはお城みたいな建物を持っている大学あたりが当番/会場になるのだが、10年に1回未満の頻度で当院も当番にあたる。今年度がその出番だ。めんどくさい! 事務仕事、会場整備、参加票の印刷、演題募集アナウンス、応募演題のプレパラートをバーチャルスライドにしてウェブに載っけてもらう手続き、プログラム作成、特別講演の準備、総会との連携、おかし・ドリンクの買い物、Zoomライブ配信の設定などをやる必要がある。今年度はそういうのを私が主に担当している。うなだれる。臨床検査技師さんとか研修医とかスタッフもときどき手伝ってくれるが、なんかまあ、私がやってできないことではないのでなんとなく自分でやってしまう。管理職としてあるまじき態度なのだが自分でやってしまう。
何度かここでも書いたことがあるけれど仕事をまわりとシェアできないという私の性格的かつ構造的な大弱点の話である。人間だれしも欠点がありそこを愛でてなんぼだと思う(ひらきなおり)。下にやらせないと育たないよという意見はわかるがこの世界上がポンコツでもがんがん育つからどうでもいいじゃないかと思っている。ただ「日記」だけは書いている。いずれこの仕事を自分でやらなければいけない人が出たときに私の日記を読んでてきとうにがんばるだろう。さすがにそういう遠回しな受け渡しだけはやるようにしている。
北海道に病理専門医は100名ちょっといて、その多くは札幌、旭川、帯広、函館あたりに暮らしている。ただ地方の中規模病院でひとりで働く病理医というのもそれなりにいて、そういう人たちが、年に4回えっちらおっちら学会場までやってくる。あるいはコロナ禍を経て遠方からわざわざ札幌まで出てこなくてもZoomがあるよね? Zoom当然だよね? と熱意はないが欲望がある目でこちらをちらちら見てくる人にそなえて私はZoom配信の準備をする。業者を入れると金がかかる。病理学会の北海道地方会ごときにそんな金はないのだ。したがって工夫と知恵で自前でなんとかする。会場PCを有線でオンラインにつないでZoomにアクセスすれば少なくとも演者のプレゼンは会員限定でオンライン中継できる。問題は会場とのやりとりだ。会場では普通にマイクを使うのでアンプからPCに音を拾えればそれに越したことはないのだが、そんな機材はないので、集音性がそれなりにある会議室用のマイクを会場のスピーカーのすぐ横に置くといういかにも手弁当の荒業でのりきる。第1回はこれでうまくいった。アンケートには「ときどき音声が聞きづらかった」という感想があったが、はっきりいうけど現地にいてもしゃべり手の滑舌のせいでときどき聞きづらいときはあるんだからそこは別にいいんじゃないかという拡大解釈で不満を見なかったことにする。運営。運営の本質。考えればすべての悩みは解決する。よく考えて、ここぞというところで考えないようにする。
萩野先生が「考えるということはどういうことなのか」みたいなことをさらっと書かれていてうなだれた。そうだなあ。考える考えるというけれどこれはいったいなんなのかなあ。「よく考えろ」という命じ方も意味がわからない。「考えれば考えるほどわからない」なんていう決まり文句もある。地方会の準備においてはとにかく余計なことを考えずに裁断機で参加票をA4からA5サイズに切ったりプログラムにホチキスを打ったりしている時間が長い。医局秘書がさげすむような目で私を見て「当院の図書室のコピー機はホチキスを自動で打ってくれるんですよ」と言って言葉のヒールで私の心の腹部を踏みつけた。よく考えるとこれ気持ちいいなと思いながら建前上は屈辱に堪えているような悔し顔をする。
そろそろ旅行に行こう、昨晩、家人とそのように話したあと、どちらともなく、「そんなひまはないが」と言い合ってそうだそうだとなった。臨床・研究・教育、私たちはとかく働きすぎるし考えすぎる。へたな考え休むに似たり? 似たり、似なかったり? どっちなんだい? 考えるということは確かになんのことなのかよくわからない。働くというのも不思議な概念だ。「死ぬまで生きる」みたいな詩人くずれしか喜ばない中身のスカスカな言葉というのも我々は繰り出すことができ、「働いたり休んだりする」とか「考えなかったり考えなかったりする」というのも自由自在だ。私はときどき考える。ゆえに私はときどき存在する。