愛のリズムは心拍の誤認

本日のB定食がきのこスパゲティだった。ふりかえってみると私は長いことパスタを食べていない。食堂では定期的にラーメンやそばなど麺類が提供されるが、パスタを選んだ記憶がない。たぶん5年は食ってない。下手すると10年口にしていないだろう。べつにパスタがキライなわけではなかったのだが。居酒屋でパスタは出ないしイタリアンで飯を食わないからまるでチャンスがなかった。そもそもうちにパスタの備蓄もない。唯一、私の目の前をスパゲティがたまに通りがかるのが当院の食堂だ。しかしまあ長いこと食わないできたものだ。

最近ラーメン食ってないな、とか、最近餃子食ってないな、みたいな気配りはするほうの人間だ。たまに店でパン買ってみるかとか、ソーメンひさびさにゆでたいな、なども思いつくことはあった。しかしパスタにはぜんぜん愛情がなかった。これまで食ってきたうどんの1/3くらいはパスタに置き換えても人生としては問題なかったはずだ。しかしパスタは完全に無視というか、パスタの存在を心が検知できないままここまできた。

私が食べていない食べ物なんてほかにもいくらでもある、ヤムイモとかパパイヤあたりは食べた記憶がないわけだし、世の中のあらゆる食材を口にしなくてもどうということはない。ただパスタほど一般的なものをねえ、へえ、ふしぎなもんだねえ。世の中への普及度合いと私の経験の少なさのミスマッチがおもしろい。生活というものは、黙っていれば平均に収束していくというわけではないのだな。複雑系の果てにいるはずなのに。



手が少しむくんでいてキーボードが打ちにくい。まぶたの上にゼリーが乗っているような重さを感じるし、耳のまわりがほかほかとあたたかくて、眠気に頭から飲み込まれつつあるような状態だ。デスクで5分ほど過眠をとる間に大鍋で麺を茹でる夢を見た。眠りが浅すぎて夢というよりは覚醒時の連想というか妄想に近いようにも思うがまあわかりやすい夢である。昨日は某社の編集者にひとつ原稿を見てもらった。「100点のところと20点のところが交互に出てくる原稿です」という評価をもらった。あらかじめ蛍光色でマークした原稿をちらみさせてもらうとたしかに私の文章はよいところとよくないところが交互に出てきている。これはバイオリズムなのだろうかとそのときはふと思った。しかし今にして思うと、「波があればそれは生命のリズムである」というのも雑な話だ。たとえばさっきのスパゲティの話をむしかえしてもいい。あるいは私が運動もせず仕事ばかりやっているといういつもの話でもいい。生命はバランスよく、交互に、まんべんなく、リズミカルにホメオスタってるわけでは必ずしもないと思う。放っておけば偏る。放っておけば淀む。放っておけば変化を嫌う。放っておけば遺伝子のプログラムした範囲でしか動かなくなる。複雑系だからこそカオスエッジからどちらかに傾いたらあとは真っ逆さまというほうがリアルなのだと思う。私の書く文章に波があるのは自然なことではなくたぶん「無理をしている」からなのだ。私はくだんの文章できっと自分を大きく見せたりかしこく見せたりしようとした。本来私の考えていることが求める文字数よりも、オファーされた文字数のほうが多いから、それにあわせて言うことをふくらませようとしたり盛ろうとしたり飾り付けようとしたりしたのだろう。それがまだらにあらわれたから一見「リズミカルに成功したりすべったりを繰り返している」ように見えたのだろう。


私は無理をしてスパゲティを食う。「たまにスパゲティ食べるとうまいよね」と言うタイプの人間になりたいからわざわざスパゲティを食っているのだと思う。本当は米とうどんがあれば十分なのだ。そば? そばでもいいね。そばを食ってる自分ってかっこよく見えるもんね。そういうのはもういらないのだ。米とうどんがあれば十分なのだ。ピザ? たまに食いたくなるよね。たまにピザを食う自分でありたいよね。そういうのはもういらないのだ。米とうどんがあれば十分なのだ。米だけでもいいかもしれないが私はうどんに対してはきちんと愛がある。ただし愛というのは常設されているものではなくてある程度のリズムをもって脈動するものである。うどんも後付けなのかもなあ。