言語化するときにはまずとにかくなんでもいいから言葉にしてみる、口にしてみる、思い浮かべてみるところからスタートする。それは「他人の言葉」であってもかまわない、というか、基本的に、借りてきた言葉をいったんあてはめてみる以外にやれることはないので、最初はとにかく人真似でもパクリでもいいから誰かがすでに用いている言葉でやってみるしかない。美しいものを見たらまずは美しいと、うまいものを食べたらまずはうまいと言葉にする。陳腐でもかまわない。オリジナリティなんて出てくるわけもない。そして言葉にした次の瞬間にすぐそれを疑う。
「すぐ」というのが大事だ。
「美しい、いやちょっと違うな」と、自分の口から出た言葉が印象になり刻印になってしまう前に手早く、仮に当てはめた言葉をすかさず否定する。その否定の仕草の最中に、「でもぜんぶ違うわけではないんだよな」と、とりあえずあてはめた他人の言葉の何が気に食わなかったのかを高速で検証する。ここにいちばんエネルギーを使うべきである。
それは剣道の技を稽古で修正していく作業とかなり似ている。
虚空に向かって素振りをするのではなく、藁とか竹で作った打ち込み台にまずは打ち込んでみる。そして打突した瞬間に手のひらや腰に伝わってくる感触をすかさず確認して今の打突の改善点を急速にチェックして次の打突のときにそこを変更する。左手の絞りが最後に足りてなかったから剣尖が伸び切らなかった、とか、左腰が開いた分だけ前方への運動量が相殺されて衝撃が発散した、といった違和のポイントを回収し、次の打突のときにそこを直してみる。左手の絞りを気にすると僧帽筋や広背筋に対する気配りが少し減るので前傾姿勢の確度が変わったり首の位置が微妙に不適切になったりすることがわかる。左手を絞った分、右手で補正するその強さがまだフィックスしきれてないなと気づく。左腰を入れると右のかかとがもちあがり気味になって体幹全体が少し上下にぶれたかもしれないと考える。そうやってまた次の打突に備えて微修正を行う。
こうして何度も何度も打突練習を繰り返すような心持ちで言語化を繰り返す。知性を用いないと筋肉に乱れたフォームを教え込むことになってしまうので、繰り返すことに主眼を置くのではなく、毎回高速でフィードバックして連続で微調整を続けることを肝に銘じる。
Xで流れてきた言葉。「安易な言語化はしてはだめです。人から借りてきた言葉をかんたんに使ってしまうと、できごとの実感が安直な言葉におきかわってしまって、生の感触を忘れてしまうからね。言語化というのはもっと丁寧に、だいじに、自分の言葉を探して……」
はーまあそういうタイプの人もいるのかもしれないけどその程度の言語化でこれまで済んできたってことだろと感じる。じっと瞑想して自分の理想の剣士を思い浮かべて何度も何度もそれを頭の中でこすったあとに一刀だけ居合で切ると藁束がきれいに切れる、みたいなニュアンスだなと思う。そんなわけないと私は思う。試技を繰り返すことなしに理想の一刀にたどり着けるわけがないのだ。言語化というのは安易にやるべきである。そしてその安易さをすぐに自分で否定するのだ。「理想の言葉」を無から生み出すのではなく、流木のような素材をまず提示してそれを心のノミでがんがんに削り出して中から観音様を掘り出すようにして言葉を顕現させるのだ。
「口数は少ないけど心に刺さることを言う人」なんてのは存在しない。仮にそういう人があらゆる他者の前でめったにしゃべらないのだとしても、心の中に学校の体育館のように音が響く中腔があって、そこにかの人の言葉は常時響き続けている。ずーーーーっとうるさい。反響してかえってくる自分の言葉をああでもないこうでもないと猛烈な勢いでいじくっていくのに忙しいからいちいち他人と会話しないだけである。口数。手数。言語化する前の模索の動きと言語化した後の精査の動きを両方とも膨大な量行ったすえに人前でぽろっと結果をひとつだけ落としてまた黙る。それはうるさい人間のやることだ。それはものすごく口数の多い人間の仕草だ。扇風機の羽が早く回ると反対方向にゆっくり回って見えるようになるのと同じだ。