休日に出勤してメールチェックをする。書きたい原稿のことが頭をよぎる。書かずにメールの返事ばかりする。お断り。お断り。仕事を頼むと断られてばかり。理由が非常に納得できるもので、それはたしかに頼んだこちらのほうが悪いなと思えることばかりでがっくりとうなだれるばかり。私もできればもう少し違う人に、バリエーションを出すかんじで、いつも同じひとばかりではなしに、たまには違う切り口で、仕事を頼みたいと思う。そうやって思考して選択しつづけることがなにより大事だ。しかしいつもここで書いているように、私の人生は選択よりも微調整によってコントロールされている。今回は右、次回は左といったように、アイコンをずばずば切り替えるがごとくころっころっと違う方向にばかり目を向けていくような歩き方はまずできることがない。せいぜい2度。がんばっても5度。歩く方向を微妙にずらしながら全体としてはなんとなく同じ方向に歩いていく、みたいなかんじでしか人生をコントロールできない。それはあらゆる仕事においても言えることだ。私は似たようなことばかりしている。
拡大倍率を上げれば上げるほど差異は些細になっていく。さいがささいになっていく。おちゃのこ差異差異。再々些細。エルサルバドルみたいなリズムだ。先日の編集者との会話:市原がドゥルーズを参照してしまうと「説明できすぎてしまう気がするから違うと思います」。全く同感だ。私のもやもやと考えていることをドゥルーズをもちいて言い表すと「私がそこまで考えていなかった部分までなんかうまいこと言葉にされてしまう」ので、おそらく、私のしごと相手にとってはそれはいいことなのだけれど、私にとってはよくない。私はこれから自分の中にだけ響いている言葉を自分でしかできない形でじわじわ真綿でトライツ靭帯を締めるように他人にもそこそこ通じるストレスのかたちに整形していかなければいけない。そんなときに、ドゥルーズだと、ストレスが足りなすぎて、たぶんうまくいかないと思う。
田村尚子『ソローニュの森』がどこかに行ってしまったので書い直した。たぶん職場の本棚のどこかにあるのだ。しかし私は今読みたかったのだ。何冊あってもいいだろう。本が読みたいときに手元にないストレスほど大きなストレスはない。『ソローニュの森』は二周以上読むことが前提の本だ。私はこの本をおそらく百周くらいしている。少しずつ作者の言いたいことがわかってきたような気がしている。これで少しなのだからおそれいる。ままならないもの、コントロールできないこと、把握しきれない大きさ、見通しきれない暗さ。私の生命を維持するために必要なストレス。蓄積されることで「重し」になるものたち。