最近足腰が弱って目はしょぼしょぼだし長時間寝ようにも体が痛くなるから寝ることもできない

ちかごろは、身近な人と語るための話題というと、狭心痛がどうとか腰が痛いとか目が悪くなったといった身体にまつわることばかりである。私との距離が近ければ近いほどそうなる。「顔をみると調子悪いとしか言わないねェ」なんて、指摘されるまでもなく自分でもとっくに気がついている。

若いころからそういう中年にはなりたくないなと思っていたものに、今自然と到達している。

なぜこうなってしまうのかについて、かつては決して思いつかなかった確固たる理由が脳裏をよぎる。

身近な人には好きなものを語れない。それは当たり前のことだ。

好きなもの、こだわっているもの、取り組んできたこと、のめりこんでいること。これらを語る相手は、程よく他人であったほうがいい。なぜなら、自分が本気で好きになっているものを語ることで、身近な人々が困惑したり拒否したりしたら、その後、その近しい人々と時間をつむいでいくことが不可能になるからだ。

長くたくさんの時間を過ごす相手と共有する話題に火種は要らない。

となると好きなものは語れないのだ。何かを好きで居続けるためにはたくさんの摩擦が生じるしアンビバレントな感情が巻き起こる。ときに否定しながら肯定することでかえって強く肯定するような語り口を、本当に身近な人と共有して、相手がそれに疲れてしまったら申し訳ないだろう。まったく理解してもらえなかったら辛いだろう。それほど深くない思考の末に気軽に否定されたらしんどいだろう。

だから好きなものほど語れないのだ。


誰かが何かを好きでいるとき、それをたまたま摂取して、すごい、これはまるで俺だ、これは俺もまさに好きなものだ、と感動できるのは、ひとえに、その語り部が「それまで全く知らない人」であったときだけではないかと思う。

生活も人生も完全に他者であるところから好きなものの話題だけが飛び込んでくればそのとき私はその好きなものについてはじめて全力で立ち向かうことができるのだ。




SNSは身内のざれごとを垂れ流す空間になりつつある。だからもう、SNSであっても、好きなものの話はできない。

山奥で自分の身の回りの世話を自分でなんとかしながら、草木を育てて暮らす老人を見て、かつての私は、なんてさみしいのだろう、きっとつらいのだろう、そうならないように私は好きなものを共有できる人たちと一緒にいたいものだ、と思っていた。

何もわかっていなかった。

好きなものと暮らすために、大事な人は邪魔なのだ。

大事な人と暮らすなら、好きなものを極められなくなる。

それがわかった老人たちの、きわめてぜいたくな、うまく行き過ぎたレアケースとしての老後の暮らしが、「山奥に引きこもる」ことなのではないかと、今はひとつの価値観として思う。



好きなもののために「会いに行く」みたいな行動をする人は何もわかっていない。

それは本当に好きなものではない。「会いに行く自分のことが好き」なだけだろう。

好きなものほど秘めておくことになる。

それは二番目、三番目くらいには大切なものを邪険にしないための、社会への礼儀みたいなものだ。そういう礼を尽くしている。

一番大事なものは身近な人と共有すべきではない。前はSNSに流せたんだけどな。今はもう、SNSは本当に、身近になってしまって、だからなんの意味も持たなくなってしまった。