あんちめたにんち

看護学校の教え子がたくさんフォローしてくれているためにフォロワー欄のアイコンがいかにも華々しいかんじになっており私のインスタグラムは「やらしいインスタ」と言われている。そのやらしいインスタを久々に見に行くと昔相互フォローだった人がいなくなっていた。外されていた。まあそういうこともあるだろうなとは思う。

昨日の話。20年以上交流のなかった中学時代の同級生の名前がスマホの画面に浮かんだ。夜のことであった。半分眠っていたのでめったにならない着信音におどろいてスマホを見て固まってしまった。出て何を話すのか、借金の無心だろうか、なんらかの告発だろうか、広がらない可能性を潰しているうちに、親指はそっと着信を拒否していた。スマホを置いて再び眠りにつき、翌朝起きると痕跡はとくに残っていない。電話アプリを開いて履歴を見れば彼から電話がかかっていることはおそらく確認できるのだが、私はどうもそういう、虚実の境目でただよっているものを実の側に確定する作業がしんどくて、今もまだ履歴を確認していないままである。まあそういうこともあるだろうなとは思う。私は相互フォローを外す側にも外される側にも立っている。

プレイヤーとして働く時間が5割、マネージャーとして働く時間が5割。だいたいそのようなバランスで日々の振幅に耐えている。ときに、同級生から唐突な電話がかかってくるといった「マネジメントゼロで純粋にプレイヤーとして判断しなければならないタイミング」で右往左往する。老いを実感する瞬間だ。

なんでもかんでもSNSに結びつけなくてもいいのだけれど、どうも私はかつてはSNSでプレイヤーをやっていたのに、ちかごろはすっかりSNSに対してマネージャー気分だなと感じる。誰かがSNSを使っているところを見て、それでいいぞ、それはちょっとずれてるぞと、自分が介入するにしても全体のバランスをかんがみてどうこう、みたいな目線ばかりである。自分自身がSNSの中でなんらかの道具もしくは先端としてなにかに運動量を与えていこうというプレイヤーの気概がなくなってしまっている。管理目線。上司目線。上から目線の北から目線。視座。視野。そういった話ばかりしている。SNSがつまらなくなるのも当然のことだな。ところでフォロワーがばかみたいに多い友人たちは昔から「プレイングマネージャー」として振る舞うのがうまかったなと思うが、おそらく私は最初から昨年くらいまではプレイヤーであることを徹底していて、だからこそ、中途半端に監督目線の人よりも純粋にSNSを楽しめていたのだろうなと思う。しかしそれに比べると今の私はすっかり「今季から選手権走塁コーチをやってくださいと言われたベテラン選手」、すなわち事実上の引退勧告を受けたピークをすぎたチームの精神的支柱みたいなこころもちでSNSをやってしまっていて、ああ、それはつまんないだろうなあと、来年からコーチに専念しつつ昨年うっかりプレイヤーのつもりで買ってしまったマンションのローンが気になるから今度はちゃんとマネージャーとして財をなさないとなあと、気持ちを切り替える、みたいなところに引き下がってしまっている。

もう少しプレイヤーでいる場所を確保したほうがいいような気がする。しかしそれは「やらしいインスタ」に日常を投稿するとか新たに趣味を見つけて自分の五感と本能がよろこぶムーブを探すといった方向に行きがちだけれどそういうことではないような気もする。自分のやっていることがだんだん自分ごとじゃなくなってきている。創作物をつくる側の人間が「いかに読者に自分のことと思ってもらうかが大事だ」みたいなことをたまに言うのだがうわっ気持ち悪いことを言うなあ、と思う。自分が他人になっていく老いの過程で自分に自分として向き合える瞬間を確保するにあたって「狙いすまして作られた創作物」がその役割を担っているとしたら私たちは知らないうちに金にしか興味のない創作者たちによってマネージメントされているということになる。まあ別にそれでもいいけど気持ち悪いことだよなと思う。私は私を俯瞰せず、幽体離脱をして自分の斜め後方に浮かぶことをせず、顔面の最前線に意識をはりめぐらせて世界の風をきちんと感じる体験をもうすこし大事にしたほうがいい。なにがメタだ。なにが構造だ。そんなことだから私は、旧友の電話にも出られないのだ。