疳の虫は違わない

私にも獰猛なモードというのがあって、なにかに怒りをぶつけまくることで自分の中から言葉をひっぱりだそうとしたりする。かなり効率よく目の前のスペースに言葉が積み上がっていくので、分量を書くにはべんりである。ただし気をつけなければいけないことがある。怒りに駆動されるイディオムは少ない。誰かがどこかで怒るときに何度も何度も使った言葉を借りてくることになる。みんなだいたい同じような言葉を使って怒る。それが許容されるのが怒りという感情だ。だからとにかく似通ってくる。「誰も表出したことがない私だけの怒り」という価値は基本的にあまり認められていない。そこが怒りの特色である。したがって怒りによって言葉を量産すると怒りが沈静化したときにすっっっっごくつまんねえぇ文章になっている。数少ないデメリットであり最大のデメリットであり致命的なデメリットである。

怒りによって借り物の言葉が誘導されるというよりも、怒りという感情自体が誰かから借りてきたものなのではないかと「勘違い」する。そしておそらくそれは勘違いではないのだと思う。そもそも喜怒哀楽の多くは借り物である。借り物というか、私の中にあるこのもやもやとしたものはなんなんだろうというのを、幼少のみぎりより、「それは楽しいってことだね、ほら、こんなふうに」「それは怒ってるってことだね、ほら、こんなふうに」と、周りの大人や周りの子どもたちが先行して形成したものを見せびらかしてくるのでそれを手軽に輸入することでツーバイフォー的に手軽に組み上げたものが今ある感情のほとんどなのだと感じることは確かにある。組み上げたものがツーバイフォーでも木の城でもよくて中に住んでいる自分というものがオリジナルならそれでいいじゃないかという線引きがなされているので普段はあまり問題にならないのだけれど実際には中になにか、自分、そんなものが住んでいるかどうかは誰にもわからない。

自分とはなんなのか。自分らしいとはなんなのか。借りてきた言葉。借りてきたクエスチョン。ガイドラインの中にたくさんのクリニカルクエスチョン。自分で疑問を持つ必要がなくふしぎに思うことにすらレールを引いてもらえる便利な時代。

借りたもの。既製品。既製品のくみあわせ。20種類のアミノ酸だけで人体のすべてを構成しています。コンビネーションの妙によって場面に適応しオリジナリティを出せばいいのだからひとつひとつのパーツを借りること自体にそんなに罪悪感を抱えなくてよい。つぎはぎの心。リサイクルの心。プログラムによって再生できる心。自動生成された1000種類のマップといってもどうせ61番ばかりが使われてほかはほとんど使われることがなかったシムシティ。いや、137番も使うよ。このやりとりまで含めていくらでも借りてこられる。「うちの庭には犬がいる。」この短文をゴッドファーザーのテーマに乗せて歌ってみてください。ほら楽しい気分になった。こういう貸し借りで私たちの日常は駆動されている。ほんとうは、うちの庭に犬はいないし、ゴッドファーザーはIしか見たことがないし、私は今とくに楽しい気持ちでいるわけではない。すべては勘違い。だとするならば、その「勘」を疑うべきなのだろう。勘もまた借りてきたものではないかということ。私はときおり、貸すほうに回っているのだろうかということも含めて、ちょっとだけ気になって、でもこの「気になり」もまた、借りてきたものなのだと思う。