望むところである

燃え殻さんの『湯布院奇行』という小説があって、俳優たちによる朗読の入ったDVDとセットでの販売で少しお高かったということもあって発売日に買うのを一瞬躊躇したらものすごく時間が経ってしまってそのまま読んでいなかった。そういうことをしたらだめだ。本を買うのに躊躇して成功したことが今までどれだけあるというのか? いやまあいっぱいあるけど……あそこで躊躇しとけばこんなつまんねぇ本読まなくてよかったのに、みたいに感じたことは山程あるけど。でも、今回ばかりは、しまった、と思った。おもしろかったのである。朗読はまだ聞いてないけど。たいへん幻想的で。世界がすごく少ない範囲で完結しているのがよい。小川洋子『薬指の標本』を読んだときに感じた感想とも少し近い。RPGツクールで、マップをすごく狭くつくってどっぷりはまりこんでいくような。はじまりの城、途中のダンジョン、ラストダンジョンを一本道でつないで、周りには何も構造を置かない。あっというまに世界の外郭の壁にたどりついてしまう。閉塞感。閉じ込められている。なのに感情が拡散していく。狭いはずなのに。深いからだろう。マリンスノーのような。そういうことなのかも。『湯布院奇行』はマリアナ海溝に沈んでいく微生物の死骸をずっと見ているような雰囲気の本だ。もっと早く読んでおけばよかった。深海底航海しながら心底後悔した。

話は変わるが『ソローニュの森』を四たび購入。なぜ? と言われるとわからない。職場の本棚にささっているのだから読みたければ取りに行けばいい。でもまた買ってしまった。ほかの場所にも置いておきたいとふと思いついて、いくつかの場所に置いておけば取りに行く手間がはぶけていい、みたいな馬鹿げたことを考えた次の瞬間にはこの本を手にとっていた。Amazonでポチったのではなくて書店で購入。写真集ってそういうところがある。写真の力だ。無駄な買い物とは思わない。二度目に買ったときと三度目に買ったときはそれぞれ人にあげた。いいプレゼントだったと思う。しかしどれだけそれらの人の心に残ったかはわからない。もう砕け散って堆積物になってしまっているかもしれない。本がそうであってもいいと思う。

元寇で沈没した船を引き上げるプロジェクトをがんばっている水中考古学者の話をYouTubeで見た。おもしろかった。ふつう、沈んだ船の木の部分は、フネクイムシだかなんだかいう虫によってあっというまに食われてなくなってしまうものだそうだが、たまたま沈んだ場所の海底の、砂の状態がなんかアレで、船が砂のなかにじっとりと沈んでしまって土中が酸欠になり、フネクイムシがたどりつけなくて沈んだ船の形がそのまま残ることがあるという。元寇で沈んだ船は九州長崎のなんとかいう湾の中で1メートル以上の砂の中にあり、音波探知やら棒でヌグッと突くやらしてゆっくり探して見つけると、あまり腐蝕がすすんでいなくて形が残っていてばんざい、しかし引き上げの予算がなかなか貯まらないのでまた砂の中に埋め戻してお金が貯まる日を待ったりしているのだそうな。なるほどー。すごい話だあー。北欧のバイキングの船とかが、今どこぞの博物館に展示されていたりもするらしく、それらも似たような経過をたどっているようで、土砂に巻き込まれてフネクイムシがいないだけでなく、たとえばたまたま湾の酸性度だか塩分濃度だかがアレだったためにフネクイムシがいなかったから船の形が残った、みたいなこともあって、それを引き上げて脱塩処理して保存加工すると年間200万人くらい観光客がいて、博物館の職員もバイキングのコスプレをしてニコニコ案内をするのだそうな。はぁーすげぇ話だあー。日頃から、臓器をいかに保存するか、みたいな話をわりとちゃんと考えている職業人だけれど、昔沈んだ船がたまたま今に残るとしたらどういう条件が必要かという話、ほんとうにおもしろかった。でもこれほかの人が見てもおもしろいと思えるのかな。まあ思うか。同じ人間だもんな。ワンダーを受け止めるセンスなんてそうそう変わらないだろう。変わるかな。変わるか。ごめん変わるわ。でもみんなが私と同じものを楽しがってくれる狭い世界で暮らしたらおもしろいだろうな。もしそうだったら、私はきっと湯布院奇行の彼のように、時空の狭間で精神を破壊されながら幸せの湯船に浸かって二度と出てこられなくなるだろう。