学生からの相談に乗る、というか、相談というほどでもない、悩みというか、悩みというほどでもない、うーん、そのとき思っていることをぶつけられる「壁」としての役割を担当する。
「医療の勉強が一番大事だというのはわかってるし、学校をやめる気はさらさらないんだけど、ほんとうはバイトしてるときが一番充実していて、でもバイト先では昇給うんぬんですごく他人と比べてしまったりもして」
うわぁー、人生だなぁーと思った。
先日谷川俊太郎が亡くなり、タイムラインにたくさんの詩が流れてきている中にこんなのがあった。
「人生に意味はない。味わいなさい。」
これ、本当に谷川俊太郎が言ったかどうかは定かではないのだけれど(Xにはまじでそういう情報ばかりなので)、うん、そうだなあ、意味とか優先順位とかじゃないんだよなあ、みたいなことを思った。しかし、この詩をあたかも自分が元から知ってたかのように学生に送りつけて「谷川俊太郎を読みなよ」とはしなかった。それはまたちょっと違うだろう。
環境が自分に求めてくる「一番しなきゃいけないこと」と、そのときの自分が「一番やりたいこと」が一致することはめったにない。「ワークライフバランス」みたいな解像度クソザコ決まり文句とか、仕事と私とどっちがだいじなの案件とかも、つまりはこの「やらなければいけないことが複数あり、かつ、優先順位は自分では決められないための悩み」に収束する。
「自分の中での一番を決めないといけない」という発想は、おそらく、なにかを成し遂げるためには専心して没頭しないと投入する努力の絶対量が足りなくなるという計算に端を発している。限りある人生の資源を消費して何かをしようと思うとリソースの割き方を考えないといけない。きわめて実務的な話だ。大人はみんな知っている話だ。
「ひとつに没頭する」なんてのはいまどき学生ですら達成することがむずかしい、かなり強めの幻想である。我々にはたいてい人生の中に複数の基本軸があり、どれかひとつだけに集中して打ち込めることはまずない。マンガ家や小説家が「出版社がやってくれないから自分でSNSで宣伝しなきゃいけない」みたいなことを言い、そういうのはプロが背負うべき仕事でクリエイターは生み出すことだけに集中しないとだめだよね、みたいなきれいごとがばんばん飛び交っているのをよく見る。金づるとして優れているごく一部のクリエイターならそういうこともあり得るだろう。でも人間というのはほぼ、ほぼ、「複数やらなければ人生をやりすごせない」のである。
そうそう、成功すれば、認められれば、金があれば、やりたいことをできるというのも違うのかもしれない。そんなエピソードを聞いたことがある。学生時代にベンチャーを立ち上げて大成功して、30代で会社を大手企業に吸収してもらって多額の退職金を手にして、悠々自適でそこからの人生をコンサルタント(笑)とかやりながら過ごしている人が言っていた。
「会社を軌道に乗せ、たくさんのトラブルを乗り越えて、タフな買収交渉も乗り越えて、あのころは本当に楽しかったけれど、それらをすべて精算して一生分の金を手に入れて、そこからが思ったよりふわふわしてる。ひまになるのが怖くてとにかく忙しくしている。やることが複数ないと、世に必要とされていないみたいでプライドが満たせない。だからコンサルタントとか投資とかしまくって意図的に忙しい状態を保つんだけど、けっきょく、恣意的に忙しくしているだけなので、気を抜くとすぐ虚無に取り込まれる。クルーザーのハーレムで豪遊している時間はもっと楽しいかと思っていたけど端にアルコールで思考力が落ちているだけな気もする。2億円かかるデートも2000円のデートも射精で終わるなあと思うと死にたくなる。同業者たちがみんな筋トレする理由がわかる。自己肯定感は満たせても人生の意味が満たせない気がするからだと思う。今や自分に需要はあるし供給もできる、でも、自分の人生がこれでよかったと言っていいのかがわからない」みたいなことを言っていて、こいつ作家になればいいんじゃないかと思った。
どれを一番にすればいいのかわからない。求められるもの、提供できるもの、そういったものを自分なりに考えて組み替えて、これこれこういう優先順位、と理想の暮らしを思い描いてはみるものの、ずれ、軋轢、摩擦、とにかくままならない。何かを達成するということを本当に目標にしていいのかもわからなくなる。人生なんて「やりすごす」くらいの気分でいいんじゃないかと思う日もあれば、「乗り越える」とき以外は人生の色味がつかないと落ち込むこともある。パーフェクトデイズの役所広司は人生に没頭していたからこそ、「ファンタジー」として多くの人に喜ばれたのだろうし、彼もまたやることは地味にいっぱいあったのだ。