「2015年3月から10%中性緩衝ホルマリンに変更」とだけ書かれた付箋をデスクの前に貼ってある。この知識を使うことは五年に一度もないけれど、たまーに、というかまれに、「おたくの検査室の検体固定はいつから遺伝子検査に最適化されたものになっていますか」という質問を受けることがあり、それに備えているのだ。
そして今私はあきらかに「備えているのだ」という言葉で、ふわふわとした異なるニュアンスを平らにならして押しつぶして意味を狭い範囲に確定した。実際にはそれほど強い理由はなくこの付箋はここに貼ってある。たった一度だけ外部から聞かれたことに答えるためにいろいろ調べて得た情報を、なんとなく手癖でデスクに貼ったあと、それをいつ剥がしていいかわからず、貼ったままにするとか剥がすといった積極的な行動をとることえず、なんとなくそのままにしていただけの付箋に「備え」の意味などない。しかし私は今こうして「備えているのだ」と書いてしまったので、その瞬間からこの付箋は「備えとして貼っているもの」になる。なり下がる。そういうことがある。
メルロ=ポンティも次のように言っています。「もし記号という現象を、あたかも煙が火の存在を告知するように自分とは別の現象を告知する現象だと解すれば、まず第一に、コトバは思考の記号ではない。(……)両者は互いに包み合っているのであり、意味はコトバの中にとり込まれ、コトバは意味の外面的存在となっているのだ。同様にして我々としては、一般にそう信じられているように、コトバとは思考の定着のための単なる手段だとか、あるいは思考の外被や着物だとかは、とても認められない。」(『ソシュールを読む』丸山圭三郎/講談社学術文庫)
メルロ=ポンティを逆から読んだらティンポ=ロルメだなとずっと思っている。ソシュールを読むかい? そーしゅる! そろそろウンベルト・エーコを読み直そう。『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』は装丁がおしゃれだという以外の感想が残っていない、記憶が腐ってやがる、読むのが早すぎたんだ。『薔薇の名前』を読んでみたい。言葉によって確定することで言葉で表せなかったはずのものが影響を受けてそれがまた言葉を引っ張ってくるみたいな、二重らせんが互いを縛るような心象について今の私はわりと興味がある。なじみの編集者が、7,8年ほど前だったろうか、「市原はそっち(ベルクソン)じゃなくてまずユクスキュルを読んだらいいと思う」と言ったのはおもしろかったし確かにそうだったなと思う。ユクスキュルやギブソンを通らなければ私は自らの硬く凍った因果のまなざしを疑うことができなかったはずだからだ。そして今どうしても記号のことを考える。記号というかコトバのことを毎日考える。思弁的でありたいわけではなくて日々の手さばき、というか声帯さばきの中でみずからの口から出たり出なかったりするコトバが何をどう狭めているのかということをプラクティカルに考える。「下手な考え休むに似たり」。えっマジで! へたに考えるとHPが回復するってコト!?